教員をしていると、思わぬことがときどきある。
僕が埼玉の私立・中高等学校の教員を退職してから13年が経つ。ひょんなことから、当時の教え子のシンゴから電話がかかってきた。シンゴと話をするのは、少なくとも、僕が退職して以来であることは確かだ。
じつは、5年前から沖縄に来ている。そして、那覇の町中でロックバーを開いている。今度、その店でイベントを開きたいのだが、そのイベントの中で、授業をしてもらえないか?
......そんな話だった。
僕はシンゴの担任だったことはない。たかだか授業担当者として理科の授業でやりとりがあっただけだ。しかも、シンゴを教えたことがあるのは、彼が中学生のときだけだったはずだ。それなのに、こうして突然、授業をしてほしいといわれて、結構、感動した。むろん、一も二もなく、ひきうけることにする。
「で、クリスマスにちなんで、毎年、オカルト・ナイトというイベントを開いているんですけど、そこで、ツチノコの話をしてほしいんです」
引き受けた後に続いた、シンゴのリクエストに「ええっ」とびっくり。オカルト・ナイト? 僕は理科の教員なんだけど。しかも、ツチノコの話?
そうはいっても、もう断るわけにはいかなかった。
ツチノコというのは、話には知っている。子どものころは、幻の生きものだとかなんとかいう怪しい題の、「これがツチノコの写真」とかいうものも見た記憶がある。しかし、どうにもツチノコはいそうもない。理科、それも生物を専門とする身としては、いつしかそう思うようになり、以来、ツチノコにはまったくの興味を持たなくなっていた。しかし、ネットで調べると、いまだツチノコを追っかけている人もいるらしい。意外だったのは、周囲の生きもの好きの大人に取材すると、ツチノコを案外肯定的にとらえていることだった。「いないとは思うけど、ロマンだよね」とか「昔は、探してみたことがある」とか。さらに、沖縄(日本の中でも北海道と沖縄にはツチノコが分布しないとされているのだとか)の現代の大学生に聞いてみても、ツチノコの存在は聞いたことがあるのだという。ここまでくると、引くに引けなくなってくる。かといって、ツチノコの存在を認めるようになったわけではない。ツチノコを入り口にした生き物の授業を、シンゴのバーできちんとやろうと、腹をくくったということである。
当日、おそるおそる店の扉をくぐると、狭い店内は、客で満杯だった。ちょっと驚いたのは、ロックバーだのオカルト・ナイトだの聞いて、どんな客層だろうかと思ったのだが、一見、「普通」の若者ばかりだ。女性のコンビなどもちらほらいる。さて、本番。そもそも、ツチノコが爬虫類だとすると......といった話から、爬虫類と哺乳類の骨格の違いを、実物の骨を使って説明し、次に、ヘビというのは、体にどんな特徴のある生き物なのかということを、これまたウミヘビやマムシの骨格を回して見せながら説明をした。そんなこんなの40分ほど。意外にもなごやかで、楽しい「授業」となった。
こんなところで、こんなお題でも授業ができるのか......。そう、思う。
後日、シンゴが授業の礼を言いに、わざわざ大学まで足を運んでくれた。
「音楽ばかりじゃなくて、いろんなことをできる場にしたいんですよ」
シンゴがさらりと、そんなことを言うので、ハッとする。
人に広がりを持たせること。それが教育の持つ意味の一つ、それも重要な意味ではないだろうか。
シンゴは、僕らがともにすごした学校でそのことをこそ学び、さらには、そのことを自分でできる場を作ろうとしている。彼のやろうとしていることを、はたして自分は、十分自覚できていただろうか。
教員をしていると思わぬことがある。その思わぬことが、教育とは何かと僕を問う。