読書にも適した季節となってきた。前回も話題にあがった電子書籍、私も動向が気になっていたところであるが、今回はサイエンスよりは、文化もしくは感情的な側面から、人と本との関係について考えてみたい。
新しい技術が登場する際にはいつもそうであるように、電子書籍にも色んな意見がある。例えばこのような記事―米国の小学5年生の代数の理解を深めるのに役立つとされる報告―などを見ていると、適切な文脈においては有効なツールになりうるものだと思える。代数のように抽象的な思考を迫る科目においては、アニメで示したり、解法に対するヒントやフィードバックをタイミング良く出すといった電子書籍ならではの機能が、生徒のモチベーションにうまく働きかける。日本でもNTTが「教育クラウド」を導入し、タブレットや電子黒板を活用した授業の実証実験が行われている。韓国では2011年から全ての小中学校で一部科目に電子教科書を導入することを義務付けられている。
今後学びの場から、紙の本は姿を消していくのだろうか。
大学のある教授は、引越しの際に蔵書の3分の2ほどを電子化させたことで、書棚がすっきりしたと喜ぶ。その話を聞いて私は驚いた。大学の研究室にズラリ並んだ書籍は、その研究室の主のアイデンティティを示す表札や履歴書だと思っているからだ。本のタイトルやジャンル、蔵書量、本自体に入った年季などから、所有者の知の来歴や関心のレンジを物語るというところで、本は重要な役割を負っていたのではなかったか。場所を取るという理由だけで簡単に電子化して廃棄してしまえるものなのか。そんな疑問を、また別の若手准教授にぶつけてみたが、「でもそういうことって本の本質ではないよね」とあっさりとした答えが返ってきた。
確かにそうである。本の機能は、アイデアを記録し多くの人に伝えることである。紙であれタブレットであれその役割を果たせば良い。本を所有したり、蒐集したり、装丁を楽しんだり、自分なりの分類をつくって並べて、その背表紙の眺めから自己確認を行う、といったことは、余剰の部分でもある。けれどその余剰が、人にとっての本というモノの価値にもなっているのも確かだと思う。
弊社では、パブリシティの多くをpdfで電子配信も行っている。そのお陰で時間や場所を越えて幅広い方々にレポートをお読みいただいている。しかし一方ではやはり、紙の本での発行にもこだわり続けている。紙質ひとつにしても、週刊誌のようにめくりやすい紙というよりも、少し手触りの強い紙を選び、じっくりと読んでもらえれば、というつくり手の思いを託している。
本の経験とは、単なる情報取得ではなく、人間と物理的に存在しているモノとのやりとりである。本は、表紙と背表紙という「端」と「端」を持った世界がパッケージされている。手や指先でページをめくるという行為は、未知の扉を開いていくというメタファーにも重なり、本の世界の中に没入していく感覚は、このような身体行為から生まれるものだと考えられる。 本は質量を持ち、全体の厚みの中で現在の自分の位置を無意識的に把握しながら読み進むことができる。こうした経験は、たとえ剰余的なものであるにせよ、本というモノを、人間にとって特別な存在にしている。本を、単に「情報」や「コンテンツ」という言葉で置き換えることがなんとなくためらわれる理由も、先の教授が3分の1の蔵書を捨てられない理由も、このあたりにありそうだ。学びの場から紙の本が、完全に姿を消すことはないものと思われる。