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てら子屋コラム

【コラム】 学びと遊びのダイナミクス
~2010年集めたピースのご紹介から~
澤田 美奈子

 新年あけましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。
 てら子屋の活動はしばらくお休み中ですが、「子ども」「学び」などをテーマにした研究会などで水面下では継続的に研究を行う中で、面白いアイデアのピース(断片)を蒐集しています。Twitterでつぶやくには過多ですが、レポートにまとめるには明確な全体をなしていないこれらを、この場を借りて整理を兼ねて少し披露させていただきたいと思います。お付き合いください。


 証言その1。
 あるゲームメーカーの海外事業部の方曰く、日米のゲームコンテンツ市場は全く異なる性質があるとのこと。曰く、日本の小学校低学年の子どもに人気のアクションやRPGが、北米の子どもたちにはレベルが高すぎる。北米向けコンテンツはゲームレベルを下げ、時にばかみたいに簡単なゲームが喜ばれる。しかもルールを理解してからプレイするという手順を踏まないので、そんなシンプルなゲームですらすぐに「死」ぬ。むしろ何度も「死」にながらルールを覚えていくことに面白さを見出している、のだそうです。いかに「死」なずにゲームをスマートにクリアするかを競う、日本の遊び方と大きく異なるということでした。
 さらに違いは10代後半から20代の青少年をターゲットにしたゲームにも現れていて、そこでは逆に、これまた日本では全く売れないような、複雑で緻密なロジックが求められるハイレベルなゲームが人気だと言います。
 この、幼少期から青年期にかけてのプレイスキルのジャンプは一体何なのか。文化?あるいは脳の発達の違い?と開発スタッフは首をかしげているのだそうです。


 証言からの連想その1。
 そこで思い出したのは、ある帰国子女の有名人がテレビで言っていたアメリカの小学校での経験でした。小学校低学年のころ、途中転入したアメリカの算数の授業では、先生:「箱の中のビンのフタを数えましょう、いくつありましたか?」、生徒:「5つありました」、先生:「はいよくできました」といったやりとりがなされていたそうです。そのあまりに簡単な内容の授業を彼は全く馬鹿にしており、その後の授業も疎かにしていたら、あるとき急に難しい数式や理論が出てきて、それを難なく周りの友達は操っていた、自分は全く置いてけぼりをくらってしまったと言います。


 考察その1。
 どうやら子どもの能力は「非線形」に発達する場合がある、ということがこの二つのエピソードから推測されます。毎日同じだけの量が同じペースで積み重なっていくというのではなく、あるポイントに達すると爆発的に伸びるというイメージ。
 その詳細の解明は今後の宿題にさせていただきたいのですが、どうやら「ゲームで何度も『死』につつルールを覚える」とか「ものを触って数える」といった「身体性」「経験」がまず先行していること、そこに何か秘密が隠されているような気がしてなりません。


 考察から再び、連想その2。
 続けて思い出したのは、アメリカのホームステイ先の家庭の様子でした。その家には小学生の子ども2人がいたのですが、机というものが部屋にはなく、子どもたちはいつもリビングやソファー、時にはベッドに寝っ転がりながら宿題をやっていました。映画やテレビドラマなどで見ていても、アメリカの子ども部屋の机というものはごくシンプルなもので、日本のそれのようないかめしくてシステマティックな存在感はありません。
 そういえば私の出身の大学も、外国人教授が中庭で授業をしたり、留学生が芝生で横になりながら本を読んでいたりする風景が日常的にありました。

 

 考察その2。
 つまりアメリカと日本の大きな違いは、「学びと遊びの時間と空間の仕切りがあるかないか」という点かもしれません。
 日本では小学校入学時、お祝いとして勉強机や学校用のカバンを買い与え、また居間にいる子どもに親が「自分の部屋に行きなさい」と言うのは「勉強しなさい」ということと同義になっています。つまり学びと遊びの時間と空間の仕切りがキッパリと存在しているわけです。
 ただ近頃は「リビングで勉強させたほうがいい」という子育て指南も出ているのは、その主張の正しさの根底には、アメリカの子どもの環境のようなあいまいな時空間のあり方が関係しているかもしれません。

 
 とりあえずの、まとめ。
 ここまで書いているうちに、以前てら子屋に10年ぐらい通ってくれていた男の子が「てら子屋はさ、自由に遊べる部分と、話を聞いたり考えたりしてしっかり身につく部分と、どっちもあるのが良いんだよね」と言っていたことをふと思い出しました。これはてら子屋の核心を驚くほど的確についた発言で、当時も大変印象深かったのですが、改めて考えてみますと、このてら子屋哲学と共通したものが、先月のコラムで中間さんが訪ねたような、西海岸の元気の良い企業にも見て取れると思うのです。彼らの仕事には、おもしろ半分の発想、自発性、自然さ、奔放さ、柔軟さ、大胆さ、といった遊びの要素がふんだんに見受けられます。それを一方で確かなビジネスにつなげていくという実行力、革命力、ガッツ、インテリジェンスも持っている、というのが素晴らしいし心憎い。

 人々はどうしてもラベルを貼ったり分類したりして整理整頓するのを好みますが、あえてごちゃごちゃと雑多にしておく中から生まれる面白さがあるような気がします。「学び・遊び・働き」を、言葉によっても時間によっても空間によっても区別せず、渾然一体となった地続きの営みとして、ただたのしむ力。のめりこむ力。それこそが、21世紀型の「生きる力」となるように思うのです。


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