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学びの未来

【ゲッチョ先生コラム】「違いが豊かさ」

盛口 満
2014.02.01

全国の教員が集う自主教研に参加した。
その、理科の分科会で、虫の授業の実践が報告された。
大阪の先生の実践報告が、みなの注目を集めた。本当は虫がキライなんですけど......という女性の先生が、3年生の子どもたちと、1年間にわたり、教室の中で虫と一緒に「くらした」実践報告だった。子どもたちがどんどんと虫に興味を持って、調べたことを自作の新聞などで発表していく。何より虫ギライだった先生も、子どもたちの虫との関わりに引きずり込まれていった様が報告から伝わってきた。
実践報告を聞いてからの討論の中で、最近の子どもは、虫ギライの子が多い......ということが話題になった。クラスに虫ギライの子がいるときに、虫を扱った授業でどんな工夫や配慮が必要だろうかと。
大学を卒業したばかりの新米の教師だったころを思い出した。
大学を出た僕が、初めて受け持ったのが、埼玉にある私立学校の中学1年生の理科だった。
「僕が理科を担当します。最初は生き物の世界についてやっていきます」
不慣れな口調で、そんな内容のことを話し、最初の授業を何とか終えた。そのとき、つかつかと教壇前まで一人の女子中学生が歩み寄ってきて、僕に向かって「虫とかキライだから授業でやんないでよね」と言い放った。
新米教師は、その一言で、中学では虫の授業などはやってはいけないのだと思い込んだ。そして、その呪縛が解けるまでにはずいぶんと時間が必要だった。しかし、何年も授業をしているうちに、「虫のことがキライな子がいるから、虫の授業をしない」というのは、考え違いをしているということに気が付いた。
「虫がキライ」という子どもには、大きく二つのパターンがある。一つは、ほとんど虫と接したことがないため、「虫はキライ」というイメージが先行している場合。この場合は、授業で虫と触れ合ううちに、「虫好き」に転向したりする。もう一つは、何らかの理由があって、虫が「本当に」キライな場合。この場合、まずは、「虫がキライ」ということを、おもしろがることから始めてみてはどうかと思う。僕が現在勤務する大学には、虫が大キライな女子学生が少なくないが、今、その虫ギライの女子学生が、どんなふうに虫がキライかという視点を借りて、従来にない虫の絵本を描くという試みをしている。「キライ」は、「無関心」とは異なる。つまり、「虫ギライ」の人は、「虫好き」の人とは異なった視点で虫を見ていると思うのだ。
虫の授業をするのにあたって、ついつい教員は「虫のことを知ろう」とか「虫のことを好きになろう」ということを「正しい」ゴールに設定してしまいがちだが、正しいゴールなんてない。「虫のどこがキライかキチンと説明できるようになる」とか、「虫はキライだけど、虫が好きな人には興味がもてる」とか、「虫はキライなままだけれど、おもしろいと思える」とかさまざまなゴールがありうるのだ。

僕が参加した全国教研の記念講演は、リヒテルズ直子さんによる、オランダの教育事情についてだった。
あたりまえは、一歩、軸足を別に移せば、あたりまえでなくなる。
講演を聞いて、それこそ、そんな「あたりまえ」に気づかされる。
一番驚いたのは、オランダでは200~300名ほどの、地域の保護者の署名を集めれば、学校が「つくれる」ということだった。オランダでは教育の自由が確立されている。オランダにおける教育の自由というのは、紹介したようにまず「設立の自由」が保障されているのだが、「方法の自由」と「設立の自由」も共に保障されている。この結果、オランダでは教育現場の全体の約一割が、オールタナティブスクールと呼ばれる、シュタイナー教育をはじめとするさまざまな教育理念を持った学校であり、それらの学校に子どもたちが通う場合も、保護者の負担は公立校と変わらないのであると言う。
僕が大学を卒業し、最初に勤務した私立学校は新設校であったが、学校設立基準に適合する資金や設備を準備するのに苦労し、資金難や借入金はのちのちまで学校運営に影を落とした。むろん、私立であるから、保護者の負担も大きかった。次に関わった沖縄の教育現場は、設立者個人の力では学校法人の認可を受ける設備を準備する資金が用意できないこともあり、NPO立として小さな場を確立し、これまた資金難に苦しみつつ現在に至っている。
日本には「違いが豊かさ」という概念が根付いていないとリヒテルズ直子さんは指摘する。それは「学校をつくる」という大きな場でも、「授業をつくる」という小さな場でも。
虫についての授業をするときだって、虫好きだけでなく、虫ギライもいたほうが、おもしろい。そうした中でこそ、生徒同士も変容し、先生もまた、変容する余地が生まれる。新米教師から何十年たって、僕はそんなことを思うようになった。

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