COLUMN

2010.12.01中間 真一

シリーズ「人と機械の相性」#1人と機械の親和感と違和感~アンドロイド演劇の衝撃と混乱から~

 前シリーズでは、オムロンの経営理念である「ソーシャルニーズの創造」をテーマに考えてみました。そこで、今回もオムロンの企業哲学「機械にできることは機械にまかせ、人間はより創造的な分野での活動を楽しむべきである」に注目してみたいと思います。これって、まさに「ヒューマン・ルネッサンス」そのものですから。
 このスローガンからは、チャップリンの映画「モダン・タイムス」的人間疎外からの脱却をイメージする人もいるでしょう。オートメーション化が進む工場近代化の中で、機械にできることを機械任せにするはずが、いつの間にか機械に使われていた人間という悲劇です。そこには、人間と機械の「相性」の出発点が物語られていたと思います。

 あの映画からおよそ75年経ちました。工場で働く人間の姿は、どのくらい、どのように変わったでしょうか。この点からの議論もあるのですが、今回私は別の新たな視点から、人間と機械の相性問題を提起してみたいと思います。

 じつは先日、アンドロイド演劇を観ました。世界初のロボット演劇公演として、今年8月のあいちトリエンナーレ2010開幕公演で話題となりましたが、私が東京で観たのは、「さようなら」という芝居です。登場人物はアンドロイドと人間が各一名。上演時間はわずか20分。舞台には、間もなく死にゆく運命に気付いている若い女性と、その彼女に父親が買い与えたアンドロイドが向かい合って座っています。アンドロイドは、女性と会話を交わし、彼女の心情を探りながら、必要としている詩を彼女に読み聞かせる。そういうやりとりで芝居は進みました。

 開演30分前に開場。既に舞台にはアンドロイドと女性が向かい合って腰掛けています。私はアンドロイドの身振りや表情を見やすい位置に席を取ろうと急ぎ、薄暗い客席の中で慌ただしく腰を降ろしました。と、間もなく迷いが生じ始めたのです。「あれっ、しまった。ロボットと人間を間違えたかも!?」舞台の上の2人(?)は、どちらも微動だにしません。薄暗い中では、判断を誤ったかと思うほどにジェミノイドの出来はレベルが向上しています。開演となり、照明が当てられ、身振りが見えるようになった瞬間、ようやく私は座った位置が正しかったことを確認できたのです。

 死を控えた女性と、詩を彼女に読み聞かせるアンドロイド。クライアントとサーバーの関係も明らかなはずなのに、途中で私は二者の関係に混乱を来たしそうになります。終盤となると、女性の心情を察して詩を選び読んでいたはずのアンドロイドは、じつは(ロボットである)自らの「心情」を詩に表しているようにも聞こえてくるのです。怖くなりました。この芝居を1時間以上観るのは私には辛いと感じました。

 終演後に、脚本・演出担当の平田オリザさんと、ロボット開発担当の阪大の石黒浩さんのショートトークがありました。その時、平田さんが「人間だろうと、アンドロイドだろうと、生(ライブ)で観るおもしろさがある」みたいなことを話していました。確かにそうなんです。そもそも、演劇というのは役者たちが何かの役になって演じるわけです。演じ方は、演出家が操る部分があるわけです。それがライブだから映画と違うおもしろさがあるのです。では、演じ手は人間である必要は無いのでしょうか?将来的にはロボットの方が正確に操れるようになるから演技に向いているのでしょうか?人間は何の担い手になるのでしょうか?

 ロボット演劇の話しを始めると止まらなくなってしまいます。次々に疑問が湧き上がってきてしまいます。話題を戻しましょう。「人間と機械の相性」問題です。オムロンでは、「人と機械のベスト・マッチング」を目指しています。この「ベスト・マッチング」の測り方、これからの未来社会に向けて、どんなモノサシを用意すべきでしょう。大きな未来研究テーマです。機械にできることに限界はあるのだろうか?人間とは機械に対して何者なのだろうか?もはや、モダン・タイムスの問題提起を超えたレベルで、新たな「人と機械の関係」問題が生まれているように感じます。

 そこで、今回のシリーズテーマを「人と機械の相性」として、HRI研究スタッフのみんなの考えていることも聞かせてもらおうと思います。

 それにしても、「モダン・タイムス」のラストシーンに流れる音楽「スマイル」はいい曲です。ホッとします。この「スマイル(笑い)」は、もしかするとアンドロイドに任せられない仕草のような気もします。顔が引きつっているようで、ぎこちないのです。しかし、それはコンピュータの処理能力向上で解決するのかもしれません。改めて、人間ってなんだろう?人間と機械の相性ってどういうものなんだろう?と考えてしまいます。
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