研究員コラム

2010.11.01澤田 美奈子

シリーズ「ソーシャル・ニーズ」#4欲しいのは、豊かな日常だ。

 CEATECには4年続けて足を運んでいるが、年々サチュレーション感が高まっている。今年は3Dテレビ対決、そしてiPhone・iPad等アップル包囲網の年だった。似たりよったりの製品やサービス群を目にしながら、ふと昔きいた学校の先生の言葉を思い出した。「どこがわからないかわかっている生徒なら教えやすい。困るのはどこがわからないか自分でもわかっていない生徒だ」と。
 スペック主導とかガラパゴスとか過剰機能などと指摘される日本のモノづくりだが、どうもつくり手が、顧客がどんなモノを欲しているのか、そこに向けてどういったモノづくりを行なえばいいのかわからず迷走している感がある。そんな状況だからこそ今、ソーシャル・ニーズを見つめ直すときだ。

 ソーシャル・ニーズ、というと抽象的だが、その主体は社会に暮らす普通の人々で、彼らがどんなことを欲望し、どういった社会が実現されることを幸せと感じるのかということだ。
 田口さんのコラムでも、自動改札機も地域性を考慮したカスタマイズの必要性が指摘されていたように、ソーシャル・ニーズを感知していくには、まずユーザーの日常を理解することから始めるべきだろう。世界的シェアを伸ばすアジアの企業などは、ユーザーを徹底的に知った上での製品開発を進めている。例えばある韓国メーカーは、日本向けテレビ投入に向けて数千人を対象にした覆面調査を行ったり、インド向けにはターバンを巻いた男性のために天井の高い自動車を販売したりしている。
 もちろんこういった既に顕在化している現象からのモノづくりは、中間さんの言葉を借りれば「現在進行形」ニーズではあるものの、「現在進行形」ニーズを知ることで顧客自身も気がついていない「未来形」ニーズ感知へと進める。

 では「現在進行形」の社会から描ける「未来形」ニーズとは何だろう?私なりの仮説としては、「日常を彩り豊かにすること」だと考える。日々の生活によろこび、楽しみを感じ、深く味わうことである。
 具体的に私自身の暮らしにひきつけて言うならばそれは、仕事に追われる生活の中、週末にパーッと遊ぶ計画だとか年に1度の海外旅行などの非日常的イベントを支えに、それまでの毎日をただ消化するように過ごすのではなく、日々の業務内容や同僚との仕事の中に、家族とのやりとりの中に、あるいは仕事場と家との移動時間や空間の中に、満足や生きがいや慰めを感じられることこそが、真に心を潤してくれるということである。

 ここのところ出張で東海道新幹線に乗る機会が多いのだが、車窓を眺めていると、「日本の風景はなんと単調で平凡で地味なんだろう」ということと、「だけどこの家やマンションや工場などの一つ一つに人生があり社会があるのだ」という二つのことにつくづく気付かされる。左様、日常とはシンプルな繰り返しであり淡々と過ぎ去っていくものだ。だがそれこそが生活であり、人間社会でもある。そんな日々をどう深く味わっていくか、どのように幸せを見つけていくか、だ。

 内藤さんのコラムにもあったように、子どもの成長を親はとても楽しみにしている。私の友人などもそうなのだが、子どもを持つと親自身が、何か、変わるのだ。一体何が変わるのだろうと考えてみると、ひとつは「1日」という時間のとらえ方なのではないかと思う。人は年を重ねるにつれて1年という時間があっという間に過ぎるようになるが、子どもは1日1日、確かにはっきりと成長していく。本当は大人であってもどうだっていい1日などありはしないのだが、そんな忘れがちなことを子どもは思い起こさせてくれる存在なのだ。

 子どもの力には到底適わないだろうけれども、製品やサービスも、人々のシンプルな日常生活に潤いを与える力があるはずである。四国の田舎に住む80近い祖父母の生活などを見てみても、彼らの生活にはケータイやパソコン、デジタルカメラ、軽自動車、ステレオ、カラオケセットなどの電化製品がさり気なく浸透している。それらは単に生活を便利にしているという以上に、家族だとか人間関係、趣味、地域コミュニティなどの日常を意義深く忘れがたいものにしてくれる演出品として機能しているように思える。
 未来の技術やサービスは、生活を支えるものから、彩るものとしての役割をますます大きくすることだろう。その方法として映像を立体にするとか書籍をデジタル配信するといったことがあるかもしれないし、別の方法もあるかもしれない。忘れてならないのは、製品やサービスはあくまで演出品で、社会の主役は静かに日常生活を送る普通の人々だということだ。
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