COLUMN

2010.10.15内藤 真紀

シリーズ「ソーシャル・ニーズ」#3自由と希望、そして私たちの可能性

 ここ半年の間で、身近に3人の赤ちゃんが誕生した。趣味仲間、ご近所仲間、仕事仲間の第一子、そろって男の子だ。新米のお母さんお父さんと話していて感じるのは、子どもの誕生によって将来を具体的に描きはじめていること。「3つになるまでにはこうしておきたい」「小学校に上がるころにはこうなっていたい」。子どもの成長を軸にすることによって、家族の未来がみえてくるようだ。

 それは、20世紀後半、経済成長を軸に家族の将来を描いていた風景に重なってくる。前々回のコラムで中間さんが書いているように、生活水準の向上を背景とした「効率の高さ」「快適さ」「モノの豊かさ」などが、この時代に世間が共有するニーズだった。ではこれからのニーズはなんだろう。

 今年誕生した子どもたちが20歳を迎える2030年。日本の人口は1億1,500万人で現在より1,200万人の減少、3人に1人が65歳以上だ。経済成長はさほど期待できず、高齢化にともなって医療・年金・福祉関連の個人負担は拡大していくだろう。また、世界人口は8億人を突破しており、水・食糧やエネルギーの不足をはじめ、環境的な制約がいっそう生活や経済に影響を及ぼしているものと思われる。
そうなると、少ない資源を活用しローコストかつ環境に対してローインパクトな生活を楽しむ術が必要になってこよう。また、生計のため誰もが働かざるをえないようになれば、仕事にやりがいや誇りを見つけることも重要になろう。

 このような社会におけるニーズとは、「自由」と「希望」ではないかと思う。経済的、環境的な制約が厳しくなるからこそ、選択や行動の自由度や、日常生活や将来に希望をもつことの価値がいっそう高まるのではないだろうか。悪くすると制約に慣れてしまい、自分が自由であることや、希望をもてること、希望をもつ対象があることすら気づけない場合もあるかもしれない。
すでに現在の日本でも、経済的理由で進学を諦めるとか、就職先の選択肢がないとか、もとより仕事がないなど、自由と希望が失われつつある側面が見受けられる。自分が自由であることを実感したり、何らかの希望をもつことをアシストするモノ・サービス、または仕組みが、現在から未来にわたって求められているように思う。

 自由や希望というニーズの背景は、ライフスタイルや社会環境などによって、各人さまざまである。おのずとニーズを満たすモノやサービスも多様となる。モバイル・コンピューティングに自由と希望を見出す若者もいれば、いつでも遠慮なく介助を頼める仕組みに自由と希望を感じる高齢者もいる。世界には1足のゴム底サンダルから学校に通える自由と希望を得る子どももいる。
 モノやサービスが多様になると、供給する側も多様化していく。コンピュータシステムであれば企業、介助の仕組みなら家族を中心に公的機関やコミュニティ、サンダルなら企業・非営利団体・市民、といったように。「効率性」「快適」「モノの豊かさ」の時代は供給者のほとんどは企業だったといえる。しかし、「自由」「希望」の時代は非営利団体やコミュニティ、家族や友人といった存在も、ニーズを満足させる担い手に加わっていくだろう。

 無事全員が救助されたチリの落盤事故で、最先端の掘削技術と家族らとの往復書簡が、閉じ込められた作業員に自由と希望を与えたように。生まれたての赤ちゃんたちが、両親に未来への希望と意欲を提供しているように。これからは、企業や国だけでなく市民一人ひとりが、人々、とりわけ家族や地域社会のニーズを満たす助けになることができるのだ。
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