研究員コラム

2003.05.05中間 真一

学校の外側にある「学びの場」-いつでも、どこでも、学びの場の規制緩和を-

 いま、教育改革の考え方として、子どもたちが学び育つ場を、学校だけでなく、家庭、地域に広げて連携しあい、厚みや深みのある学びの場を創出しようという方向性が打ち出されている。私も、「学校だけでない」という考え方に大いに賛同する。しかし、何のお膳立てや改善の実行も無く、学校を起点とした学びや遊びの時空間を広げることは困難だ。生きた連携は、いくら学校から通信物を発行してお題目を唱えたところで生まれ難い。「家庭」に戻された子どもにとって、日常的な生活の中の親は、学びや遊びの最高の相手ではないのは明らかだ。「地域」に放り出されても、遊び相手も、子どもだけで遊べるマチの隙間や隠れ場も見つけることは困難だ。公園が最もつまらない遊び場所だということくらい、親や先生は自分が子どもだった頃を思い返せば、すぐにわかることだ。子どもが悪いのでも、おかしいのでもない。

 難しい未来であり、創造力の必要な未来であり、自分をもつことが必要となる未来だからこそ、その未来を担う子どもたちに、どうにかして豊かな関係性を獲得できるオモシロイ機会を用意したいものだ。

 G.Wの3連休の1日、観音崎自然博物館の「磯の生物観察会」に家族そろって参加した。最近は、多くの博物館でオモシロイ学芸員の方々が、様々なプログラムを提供し始めている。今回も、家族で磯遊びに来るだけでは得られない、とてもおもしろい1日を過ごすことができた。観音崎が多様性にあふれた場であることから始まり、磯で見てきた生き物達を題材にして生物の進化も学べる、大人にも子どもにも楽しいプログラムだった。中でも、巻貝→アメフラシ→ウミウシの進化の流れは印象に残った。ちょうど、今の季節はアメフラシの産卵シーズンで、磯にはたくさんの黒く大きな不気味なかたまりを発見できる。そこで、「キャー、気持ち悪い!」でなく、その物体を手にとってみる。その感触たるや持ってみた者しかわからない。さて、せっかくきれいな磯を楽しんでいるのに、チキンラーメンのような黄色いものが海中の所々にあった。マナーの悪い人がラーメンを海に捨てていったのだろうと思って憤慨するや、ボランティアの水産大の学生君が「それは、アメフラシの卵ですよ」と教えてくれた。確かに図鑑にも出ていて、食べるとお腹を壊すそうだ。そして、それ以上にびっくりしたのは、アメフラシが巻貝から進化したことを証明する、体内に残っている貝殻を解剖によって取り出して見た瞬間だった。透明な1枚の貝殻が体内から取り出されたのだ。

 学芸員の方も、水産大や地元高校のボランティア学生のみなさんも、さすがに本場の本物だから、いろいろなことを知っていて教えてくれる。子どもは素直だから、本物と知ったかぶりの偽物を素早く感知できる。というわけで、親子でビックリ、ワクワクの時間を過ごせた。しかし、こういうプログラムに参加費を負担してでも参加する人は、まだまだ少ない。大人の側の意識に「遊び」と「学び」の断絶があり、両者の融合を拒んでいるように感じる。

 きっと、子どもの教育における家庭というのは、親自身によるものだけでなく、学校という制約の中では実現しにくい、本物の学びや遊びの場に、子どもを運び出すメッセンジャーとしても、大きな意味があるのだと思う。非日常の家庭イベントは絶好のチャンスだ。だから、学校も家庭や地域との学びの連携を本物にしようとするなら、生徒がこのような行事に家族で参加することに、もっと寛容になってはどうだろう。もちろん、公教育という性格上、学校の中での教育は機会の平等を期さなくてはならないだろう。しかし、+αの学びを学校が認めたり、推奨しても良いのではないか。少なくとも、そのような学校外の学び体験による欠席を、出席扱いにするくらいのことがあっても良いと感じる。

 なぜならば、素直な子どもたちは、まだまだ学校を休んで遊びに行くことに抵抗感が強いからだ。今回のように休日の日帰りプログラムであれば良いが、平日や数日間必要なスケジュールでは大きな制約となる。そこで、家庭からの申告や報告があれば、登校日であろうと、親の都合や博物館や美術館などの都合を優先させて、見なし出席となるような緩やかなしくみを導入することを提案したい。すると、このようなしくみを使って、学校を休んで進学塾に通うようなケースが出てくるだろう。タイトな学校行事の準備スケジュールなど、簡単ではない問題もあるだろう。しかし、そんな問題を解決することは、本物の学校の外の学びの価値の大きさから較べれば、はるかに小さな問題だ。学校だけでなく、家庭に、地域に、子どもたちの学びと育ちの場を広げるために、価値は高く、予算は不要な、導入可能な素晴らしいやり方だと思うのだが。そこに、遊びと学びの融合による、自律的な学びの場、学びの主体が生まれるのではないだろうか。
(中間 真一)
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