研究員コラム

2010.01.15鷲尾 梓

シリーズテーマ「学び」#2色褪せない記憶

 仕事に直接役立つような「所有価値」ではなく、他者とのやりとりを通した自身の変化を楽しむ「存在価値」のための学びこそ、これからのソーシャル・キャピタルの時代にマッチしてくるのでは。-前回、中間さんのコラムで、こんな指摘がありました。このコラムを読んでいて、思い出すことがありました。それは、結婚して初めてのお正月、あいさつのために夫の親戚を訪ねたときのこと。「このお花、ご存じかしら?」 お互いにまだ緊張が解けずにいたとき、家主が指差す先にあったのは、綻びはじめたばかりの蝋梅(ろうばい)でした。

 蝋梅を知っていたのは、今は亡き祖父が好きだったからでした。黄色い可憐な花を眺めていると、自然と、「蝋梅という名前の由来はね・・・」と、話して聞かせてくれた祖父のことを思い出します。同じようにして、いろいろな庭木や、道端の草花の名前を教わったものでした。そんなことを懐かしく思い出しながら話をするうちに、新しい親戚とも自然と打ち解けることができたのでした。

 考えてみれば、子どもの頃、色々な人から色々なことを教わってきました。釣り好きな隣家のおじさんからは、魚の扱い方を。酒豪の親戚のおじさんからは、ワインの作り方。旅の達人の近所のおばさんからは、いろいろな国での冒険談を。中には、記憶があいまいなものや、あのときもっとちゃんと教わっておけばよかったな、ということもありますが、今になってふと思い起こしたり、あのとき教えてもらってありがたかったな、と思うことがたくさんあります。

 もともと興味があったわけでもなければ、テストに出るわけでもない。将来役に立つからと意識していたわけでもない。教えてくれた相手も、特に「教えてあげよう」と意識していたわけではないかもしれません。そんな様々なことが今でもはっきりと自分の中に残っているのは、教わったことが身近な「誰か」、自分につながる存在と結びついていたからだと思います。「あの人が好きだったな」とか、「あの人がこんなことを言っていたな」という記憶は、いつまでも鮮やかに色褪せることがないのです。

 「詰め込み」か、「ゆとりか」。学びを取り巻く議論は、「量」や「スピード」に意識が向きがちのような気がします。「本人の興味・関心」を尊重しよう、という向きもありますが、それだけでは語れない「何か」があるような気がします。存在と結びついた色褪せない記憶は、その「何か」のひとつではないでしょうか。子どもがたくさんの人と触れ合って育つということは、そんな、色褪せない記憶を増やすことでもあるのだと思います。

 次回は内藤さんです。内藤さんの「色褪せない記憶」は何でしょうか?2週間後をお楽しみに。
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