COLUMN

2009.05.01中間 真一

「子供の情景」からの未来の情景

 岩波ホールで上映中の『子供の情景』を観てきました。監督は20歳のイランの女性です。アフガニスタンのバーミヤンを舞台として、彼女が18歳の時に撮影し、19歳で完成させたという映画です。出演しているアフガニスタンの子どもたちは、6歳の主人公の女の子をはじめ、みんな素人の現地の子どもたちです。この「子供たち」の意志と表情が未来への希望を大人たちに語りかけるのです。素晴らしい映画でした。

 主人公の6歳の少女バクタイは、「自分も学校に行きたい。読み書きを習いたい」という学びへの強い欲求を持って自ら決意して歩み始めます。とにかく、「学校に行く」ために、まっしぐらに純粋に歩き始めるのです。途中に出会う大人たちは、どうやらそういう「まっしぐら」という気持ちを人生の途中で脱ぎ捨ててきたように見えます。

 木の枝を銃に見立てて戦争ごっこに興じる年上の男の子たちに巻き込まれて捕虜にされてしまう彼女は、学校への道を邪魔されます。なるほど、「ごっこ」は大人の世界を子供の世界に変換するための遊びシステムだったのです。大人世界に出かけるためのトレーニングのようにも見受けられますが、そこにいたのは男の子というのが象徴的でした。しかし、主人公のバクタイは、毅然として「戦争ごっこは嫌い」と言い放ち、何をされても「私は学校に行きたい」という一念にて前進を続けようとします。その表情の透明感と鋭さが、濁った鈍い大人の情景を猛烈に批判しているかのようです。

 彼女の素直で鋭い視線の先には、「学校」という、まったく疑う余地のない「希望の未来」があるのです。希望の未来が、彼女の歩みを牽引しているのです。その象徴として「学校」が位置づけられているのにも、グッとくるものがあります。「子供の情景」というタイトルが意味していたのは、大人から観た「子供の情景」ではなく、まさに子供の目、子供の心に映った情景だったのです。未来を研究する私たちHRIにとって、いつの間にか忘れそうになっていた重大なポイントに改めて気づかされた思いでした。

 じつは、数日前にアメリカから戻ってきました。なんと、豚インフルエンザの騒ぎを何も知らず、暢気に機上の映画上映サービスでは『感染列島』を観て、「あり得る未来」の恐怖を感じつつ帰ってきました。それが今や、「現実」となって連日トップニュースとして画面に映し出されています。WHOは、警戒レベル「フェーズ5」を宣言し、いよいよパンデミック(世界的流行)懸念が高まってきました。不安の未来が全世界に向けて溢れだし始めました。

 「希望の未来」と「不安の未来」、未来を展望する上で常につきまとわれる両者です。しかし、「希望の未来」を諦めがちで、「不安の未来」の心配ばかりをしがちな現在の私たちに気づかされます。希望と良心の未来には、子供の情景がヒントになるのかもしれません。大人の情景には、不安と欲望が渦巻いているようにも思えるところがあります。アメリカで参加してきた未来予測のワークショップでも、ポジティブな未来への意見は、子供の情景からの発想だったことが思い出されます。「未来に希望が見えない」、「未来を考えれば考えるほど暗くなる」という声をよく耳にします。知らぬ間に私自身もそう言っているやもしれません。未来予測は、希望の未来を見つけることから始めなくてはならなかったのです。よい映画に巡り会えました。みなさんも、ぜひご覧になってはいかがでしょうか。

 しかし、この映画は「自由になりたかったら死ね!」という少女バクタイに向けられた声と、バーミヤンの大石仏の爆破のシーンで終わります。子供ならではの未来への希望と、大人社会の現実が、最後まで観ている私たちの心に迫ってきます。なんとリアルな言葉でしょう。死んだふりをしていれば、社会でも会社でも、とりあえず自由でいられるというアドバイス。あなたはこれを現実だと認めてしまいますか?それとも・・・
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