COLUMN

2006.09.01中間 真一

スウェーデン―自律社会を生きる人びと―

 8月末に、早稲田大学の岡沢憲芙教授にご指導いただいたスウェーデン社会研究の成果が書物となって出版された。タイトルはズバリ「スウェーデン」。表紙を見ても、なんとも地味でシンプルな本に見えるだろう。しかし、内容はあついという自負がある。スウェーデンで自ら出産・育児をした臨場感あふれる体験から感じたこと、留学時代や現地でのインタビューから感じたことなど、どれも研究会メンバーの執筆者自らの体験に基づき綴られたものである。まさに、編集者が帯の文に入れてくれた「スウェーデンの人びとは、どんな生活をおくっているのか」という問いに、生活実感から答える内容に仕上がったと思う。

 未来社会・生活を展望しようとしているHRIが、なぜスウェーデンという社会に注目しているのかも、この本を読んでいただければ明らかになると思う。もちろん、「自律社会」の一断面をスウェーデンの社会から見いだそうという期待と試みによるものだが、この社会は過去の大きな節目を経て完成された自律社会システムの上にあるのではなく、人びとが日々改善を重ね続けている現在進行形の改善社会、もっと言えば、未来進行形を人びとが認め合う、実験と改善の積み重ね社会であるという点に、自律社会への注目点を見いだしている。

 例えば、子どもたちの教育の場「学校」を例にとってみよう。スウェーデンの小中学校には、いじめ問題なんて皆無だろうか?そんなわけが無い。いじめを肯定するわけではないが、人間が集まって過ごす場が、最初から調和した誰にとっても居心地のよい場であるなんて、よけいに気持ち悪い。いじめ問題や学級崩壊問題のような日本でおなじみの問題は、スウェーデンにもちゃんとあった。それらの問題解決を、どのように進めるかに違いがあるのだ。例えば「いじめ問題対策委員会」のような生徒の委員会組織が中心となって、教師はサポートをしながらも、基本的に生徒の「自治」を促す方法論をとっていたり、そういう場で提案される「子どもたちならでは」の改善案を、大人の常識で鼻からつぶしてしまわずに、実験的にでも校内展開できる裁量を生徒達自身に任せていたり、それが失敗したらさらなる改善をただちに進めたりといった光景を見ることもあった。現地の知人から、いじめ問題解決のための予算獲得のために、校舎の壁にハンバーガーチェーンの広告看板を付けた学校の話を聞いたこともある。賛否両論あったようだが、その後どうなっただろうか。

 ひるがえって、今の日本社会はどうだろう?という話になると、海外事例紹介文献の中には、狂信的な「隣の芝生」憧憬のもと、自身の暮らす場をこき下ろして終わる自虐的なものも少なくない。今回の本では、できる限りこのパターンを脱したいと思っていた。それでは、未来研究にならないからだ。だから、どの章の記述も彼の地の暮らしやしくみを淡々と綴るよう、それぞれ心がけられていると思う。そこから、何を嗅ぎ取るか。何を探し当てるか。何を味わうか。そこにこそ、人それぞれの未来デザインが生まれると思う。

 少なくとも私は、彼の地の人々が改善の価値を高く評価する生き方を感じた。きっと、それは彼らの育ち方、学び方、働き方、遊び方、生き方すべての中で育まれ、共有できる価値観となっているのだろう。奇しくも私の社会人生活は、生産現場の改善屋からスタートした。改善は、改革や革新のような華やかさには欠けるかもしれない。しかし、場に定着していくのは改善の積み重ねだということを実感してきた。そして、改善は他人任せではできないのであり、問題を感じた自分自身が解いていくしかないということも。だから、私にとっては、改善の続く社会こそ、自律社会なのだと思うのだが。どうだろう。

 ぜひ、このコラムをご覧になったみなさんが、ご自分にとっての自律社会を思い浮かべて本書を読んでいただければうれしい限りです。そして、忌憚のない感想やご意見をお寄せいただければとお願いをする次第です。
http://www.waseda-up.co.jp/bhtml/06818.html
(中間 真一)
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