COLUMN

2006.06.01鷲尾 梓

バリ島で考えたしあわせのかたち

 「バリは初めてですか?」
インドネシアのバリ島を旅していると、現地の人からそんな風に声をかけられることがよくある。「日本語通じます」「日本語メニューあります」とうたう店やレストランの多さに驚かされる。

 「どうやって勉強したんですか?」と訪ねると、「辞書や本で自分で。あとは、日本人のお客さんに教えてもらいました」と言う。特に商売をしている人々にとって、少しでも日本語が話せるか、話せないかは大きな違いなのだ。タクシーに乗っている間にも、「"handmade"(手づくり)は日本語でなんと言いますか?」「"いんしょう"とはどういう意味?」と、会話の中からつねに学ぼうとしていた。

 日本語だけではない。韓国人と見れば韓国語、中国人と思えば中国語を巧みに使い分ける。しかし、彼らが言葉を学ぶのは、「いつかその国にいくため」ではない。その多くが生まれた土地で生涯をおくる彼らにとって、異文化とは、自国を離れて体験するものではなく、観光客が携えてくるものなのだった。その高い適応力は、違う世界に足を踏み入れて生きていくためではなく、自分の国に次々に流入する新たな要素を寛容に受け入れていくために発揮されているように思えた。

 バリには無数の寺院があり、それぞれで祭礼が行われているため、毎日のようにお供え物を手に寺院に向かう人々を目にした。伝統のサロンをまとい、頭にお供え物をのせて、子どもの手をひく女性たちの姿は、絵画から抜け出したようだった。観光客の目を気にすることなく、ただ淡々と自分たちのやりかたを貫く姿勢は凛として美しかった。

 そうかと思うと、その横をスクーターに乗った老夫婦がさっそうと駆け抜けていく。後ろに乗ったおばあさんは片手で荷台につかまり、片手で頭の上のお供え物を支えている。彼らも寺院に向かうのだ。
伝統的な風景と近代化された風景が混沌としている。それも、バリの典型的な光景であった。

 超高級ホテルの宿泊客が、現地の人々と肩を並べてワルン(食堂)で昼食をとっている風景も珍しくない。その一方で、その夜彼らが食事にかける費用は20~30倍も異なることもある。現地の人が足を踏み入れることのない店が、ふだんの生活のすぐ近くに無数に存在する。

 「日本にはもちろん行ってみたい。でも、遠すぎる。高すぎる」
タクシードライバーの言葉を聞きながら思う。伝統と新しいもの、自国の文化と異文化、手の届くものと届かないものが混沌と混ざり合う中で、それでも自分のしあわせを見失わない、バリの人々の淡々とした強さは何に支えられているのだろう。
一週間の旅は、それを知るには短すぎた。しかし、自分なりのしあわせのかたちをもう一度、立ち止まってみつめるきっかけをくれた旅となった。

 5月に結婚し、姓が鷲尾(わしお)になりました。これからもよろしくお願いいたします。(鷲尾梓)
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