COLUMN

2018.03.01澤田 美奈子

モノと人との別れのインタラクション

 1年ほど前、私はここのコラムで「アナログなモノの断捨離が、愛着や情緒のせいではかどらない」といったことを書いた。当時の思いとしては、アナログなものはデジタルなものよりも執着を持ちやすいというような考え方があった。

 だが最近はそんな自分の捉え方を考え直し始めている。
 きっかけは、昨年の10月から東大の稲見・檜山研究室に助教として着任された瓜生大輔さんのもとを訪ねたことである。
 瓜生さんはユビキタスコンピューティング時代における人間の信仰心やスピリチュアリティの問題について取り組む、世界的に見てもユニークな研究者の一人である。博士研究の成果である「Fenestra(フェネストラ)」は故人に対する供養の儀式を支援する新しいインタラクションデザインとして注目を浴びた。綿密なフィールドワークで得た深い文脈理解と人間洞察に基づいて製作された「Fenestra」は、まるい鏡/写真立て/ロウソク立ての3点から構成されるシステムで、伝統的な仏壇が馴染まなくなった現代の暮らしの空間にうまく融けこむものであり、ロウソクの炎のゆらめきに応じて故人の顔が現れるといったインタラクションは遺族が故人を偲ぶときのあたたかくも敬虔な精神性に寄り添った見事なデザインになっている。

 こうした研究成果や最新知見、今後の展望についていろいろお話しを聞かせてくださったなかで、とりわけ私の脳裏に刻まれたのは「デジタルの重さ」に関するお話しであった。

 デジタルが重い。――この主張、少なくとも私の生活実感には反するところがある。写真も音楽も本も映像もアナログからデジタルへと移行する過渡期を経験した自分の感覚からすると、デジタル化以前に所持していた大量の写真、CD、VHS、漫画の山などのアナログの存在感はかなり重たい。場所を取るし、捨てるにも冒頭で述べたような情緒的な葛藤が生じたりする。その点デジタルは良い。場所を取らず、どこでも持ち運べ、削除もクリックひとつで済む。実に軽快だ。
 こうした生活者感覚からすると、モノのデジタル化が進んでいけば故人の遺品整理や処分の問題なども昔ほど重労働にならずに済むのではないかという考えがあった。

 しかし瓜生さんは、デジタルデータは物理的な存在感を持たないがゆえに見過ごされていたが、むしろ心理面で知らず知らずのうちに重い影響を人間に及ぼしているのではないか、と指摘する。
 ある海外の研究では、故人が残したデータの入ったパソコンやメール、デジタル写真などを遺族が処分することができないという事例が報告されており、デジタル遺品の取り扱いの難しさが指摘されている。また国内でも近年、故人のデジタル写真から立体的な人形を制作するサービスなども生まれており、デジタルデータの保存性・再現性の利が遺族のこころを慰めることに役立つ一方、故人への精神的な執着や依存を強める可能性も指摘される。

 デジタル化以前の時代では、写真は色褪せ、何かの拍子で破れたり紛失したりして、数十年、数百年の年月の中でいずれ消えて無くなるものであった。かたやデジタル写真はクラウドで永久保存され、コピーされて無限に増殖し、時空を超えていつでもどこでも取り出せる。故人の記憶が位牌や戒名といったシンボリックなアイテムとしてではなく、解像度の高い顔や表情や肉声を伴った具体的個人的存在として残り続ける。
 故人のいない日常に徐々に慣れるとか故人のことを思い出す時間が少しずつ減っていくといった「忘却」現象は、遺された人間が未来を、とは言わないまでも、前を向いて目を開いて生きていくために必要な精神作用でもあった。デジタルテクノロジーは本質的にこうした忘却の作用を妨げる性質がある。
 これが「デジタルは重い」という瓜生さんの鋭い主張の背景であり、こうしたデジタル化社会のはらむ潜在的な課題をどう取り扱ったらよいのだろうか、というのがこれから追究したいことの一つであるそうだ。


 瓜生さんの話しを聞き終えて私はふと、昨年読んだ断捨離に関する本に書いてあった「モノを手放すこと」に対する新しい考え方を思い出した。断捨離アドバイザーいわく、本を処分するかどうか迷ったら近所の図書館やネット通販、電子書籍も自分の本棚として捉えて、どこかでまた入手し直せるものであれば手元からは処分しましょう、ということだった。つまり「所有すること」の意味を拡張せよ、と言っているのだ。
 デジタル化社会においては目の前に無いということが存在しないということを意味しない。いまは自分の目の前からは消えているけれどもどこかには確かに存在していていつでも再現できる、というような新しいモノと人とのインタラクションのダイナミクスに適応して身軽に生きるべき時代なのだ。

 モノと人とが一緒だとは決して考えてはいないが、さらに連想を飛躍させてみると、いつか「生きている」とか「死ぬ」という意味も拡張される時代がやってくるのかもしれないとも思う。この世で迎える死ですべてが終わるわけではない、というような死生観の可能性である。この世で生体反応を停止した人間は、デジタル世界の中に一人一人と吸い込まれていき、永久の魂を持つ世界へと住む場所を変えるのだ。
 この世の人生を超越した巨大な世界を仮想することで、別れや死というものは目を逸らしたり忌むべきものでも追い払うものでもない、新世界への入り口なのだという感覚が生じる。こうした考え方はこれまでは宗教が教えてきたことだが、これからはその感覚をテクノロジーが支援する時代に突入するのである。
 今はまだ私たちにとって別れは寂しく死は最もつらく痛ましいことであるが、デジタル時代の新たな死生観を受け入れるだけのこころの進化可能性が人類の側にどれだけあるのかということは興味深い。
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