COLUMN

2017.10.01澤田 美奈子

芸術とストーリー

 生きているうちに一度は見てみたいと思っていたヴァチカン市国のシスティーナ礼拝堂の天井画をようやく見ることができた。すごかった。圧巻だった。1080平方メートルという圧倒的スケールで、隙間なく描きつけられた、神、天使、女、男、老人、子ども、総勢300人の肉体の躍動、迫力ある表情の数々、鮮烈な色彩、壮大な神話・伝承のドラマ。息を呑むばかりである。
 何よりも見る者を震撼させるのは、これだけのドでかい絵をミケランジェロたった一人で描いたということだ。まさに神の技としか思えないのだが、それを神ではなくわれわれと同じ人間がやってのけたということに驚かされ、ただただその偉業に敬服するばかりである。

 もしこれが、何人ものアシスタントを雇って手分けして描いたとか、あおむけの姿勢で描き続けるのは大変なので地上で描いて完全に乾かした絵を天井に張り付けました、というようなものだったらどうだろう。絵自体の美しさは変わらなくても、恐ろしさにも似たこれだけの動揺にまでは至らなかったかもしれない。
 あの天井画が時代や宗教を超えて世界中の人々の心を動かすことの大きな理由は、たった一人の芸術家が、体力と精神力のギリギリに挑んで描き上げたというストーリーと切っても切り離せない。

 芸術とは、人間の内面世界の表現であり、精神性の高みを目指す行為であると考えられている。もし本当にそうなのであれば、鑑賞する者は表現された作品そのものを、あるいは作品から見出される芸術家の精神性のみを、捉え、眺めればよい。
 だが実際鑑賞者の多くは、芸術作品に対してその背景にある芸術家の人間としての物語を重ねることで感動を覚えるものである。美術展に行けばかならず解説や音声ガイドが用意されているし、音楽の世界でもライナーノーツやインタビュー、バイオグラフィーがあるように、鑑賞者たちは「いったい何が創作者を創作に駆り立てたのか?」という思いや体験を知りたがる。

 なぜ人はこんなにストーリーが好きなのか。よくわからない。とどのつまり、鑑賞者もまた創作者と同じ人間だから、ということに尽きるのかもしれない。
 「システィーナ礼拝堂を見ずしてひとりの人間がなにをなしうるかを知ることはできない」とはゲーテの言葉だ。ミケランジェロは稀代の天才ではあったが、鑑賞者たちと同じ身体を持ったひとりの人間でもあった。疲れもするし、暑さ寒さにも弱い肉体を持った人間であったからこそ、人々はミケランジェロのなしとげたこと――高さ20メートルの足場で4年間仰向けになり、汗や塵や滴り落ちる絵の具にまみれながら、当時の教皇やライバルの芸術家からの干渉にも屈することなく、あれだけのスケールの絵画を描き切ったこと――の困難さを思い描き、彼を駆り立てた情熱や執念のすさまじさを知り、並みの人間には到底できることではないということが解るからこそ、その英雄的な偉業に対して心からの賞賛を浴びせるのだ。つまり芸術とは精神的行為であると同時に、人間の肉体性ともまた深くつながっている行為なのである。

 そう考えると、AIとかロボットに感動的な芸術作品をつくらせようというような試みは、人間と同じ意味での「身体」を持たない彼らにとって、どうも分がわるい勝負であるように思える。アウトプットとしてすばらしい絵や音楽、文学が生み出されたとしても、機械がそれをつくったという背景は、ミケランジェロの天井画のように人のこころを打ち震わせるだけの力強いストーリーにはなりにくいからである。

 とはいえ、感動というものはいつでもストーリーなくしては起こりえないのかと言うと、そんなことはない。その最たる例が自然に対する感動である。
 アドリア海の青の青さ。ハロン湾の奇岩。グランドキャニオンの絶景。極彩色のカエルやヘビ、昆虫。動かない鳥。7年に2日しか咲かない花。自然界は人間の想像を超えたすごいもの、謎なものに溢れている。そこには創作者も創作の動機も意図も存在しないが、ストーリーを飛び超えたところで人のこころを惹きつけるものがある。

 近未来、もしAIやロボットが人の心を動かすような創作を行うようになるとしたら、そこで生まれる感動というのは、人間の創作物がもたらすような感動というよりはむしろ、自然の生み出す「創作」への感動に近い種類のものかもしれない。
 偶然としての見事さ。奇跡としての美しさ。
 それが自然美の真髄である。機械がランダム性や偶発性といった要素を持つことで、その予測できなさ、不可思議さが、ストーリー性を超えて人間のこころの「美」を感じる深遠な部分に迫ることができるかもしれない。
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