COLUMN

2017.07.01戸田 貴

故きを温ねて新しきを知る

「温故知新」という四字熟語は、“故(ふる)きを温(たず)ねて新しきを知る“という論語の為政第二からの言葉であり、その意味に諸説あるが一般的には「前に学んだことや昔の事柄をもう一度調べたり考えたりし、新たな道理や知識を見出して自分のものとすること(新明解四字熟語辞典)」だ。

前回のコラムで過去は振り返るな等といっておきながら、昔のことから学ぶのかと思われるかもしれないが、今回は自分自身の話ではなく、我々の先人たち、特に江戸の庶民生活の一部を取り上げてみる。

なぜ江戸なのかというと、現代のように便利ではなく多くの制約があったにも関わらず、当時の生活文化の中心に生き生きと暮らしていた庶民像があるからだ。歴史というと武将や合戦の派手さから戦国時代に目を奪われがちではあるが、生活者の視点からみると、江戸の活気あふれる庶民生活は大変興味深い。

江戸の庶民生活を、衣・食・住の面で見てみると、全てにわたって徹底した「もったいない精神」の実践がされている。極めて身の回りの物資に乏しいという制約条件がある中で、彼らが身に着けていった知恵こそ、“もったいないから何でも大事にして、使えるものは何度でも使えるだけ使う“なのである。

それぞれ例をあげると、「衣」に関しては、庶民の着物は、まず間違いなく古着屋(リサイクルショップ)で購入した古着だったそうだ。しかもボロボロになっても継ぎ接ぎし、次に使える部分で子ども用に裁縫し直し、擦り切れるようになったら赤ちゃんのオシメ、その後は雑巾、最後の最後に燃やして灰なったものを洗濯用洗剤や肥料にして利用する、と極めて無駄がない。もったいない精神実践のお手本のようである。

「食」に関しては、今のように冷蔵庫もなく食べ物を保存するのが難しいため、基本的に一日で食べられるだけの米と野菜を調理して食べていたそうだ。それでも余ってしまう野菜などは決して捨てずに保存の効く発酵食品・漬物にしていた。特に白米を食べていた江戸庶民は、精米する度に発生する「米ぬか」も再利用することで「ぬか漬け」を考案、これには未だに現代人も恩恵に預かっている。

「住」に関する例としては、し尿処理がある。多い時には100万人以上いたといわれる江戸では当然ながら大量のし尿が発生するため処理が必要となるが、それを周辺の農家が全て下肥(しもごえ=人糞肥料)として買い取って活用していた。食べて出したものを肥料として売る、農家はそれを肥料に野菜をつくる、その野菜を買って食べる、食べて出したものを売る、このサイクルが永遠に続く。

いくつかの例からではあるが、江戸の衣・食・住は、無駄なく使い切る、再利用する、ゴミの出ない社会をつくる、にピタリとあてはまる。現代では環境問題の解決に向けて「3R」が叫ばれているが、江戸の庶民はごく当たり前のように実践していたといえる。

これらの行動の基には、江戸の人々の行動やマナー集とされている“江戸しぐさ”の「お心肥やし(おしんこやし)」があるのではないかと思う。この言葉には、“美味しいものを食べて身体を太らせたり、いい服を着て外見を飾ったりするよりも、心を豊かにして学んだ知識を活かし人格を磨くことこそ大事“という意味がある。

“江戸しぐさ”自体が本当に江戸時代のものか、創作なのかはさて置き、これはあくまでも私の個人的見解だが、江戸の庶民には、“物質的な豊かさがなくても、暮らしの中で学んだ知恵で乗り切り、心豊かに楽しく暮らそう“という心意気があったのではないだろうか。だからこそ、過去の資料に、生き生きとした楽しそうな生活シーンばかりが残されているのだと思う。

翻って、現代の我々は物質的豊かさに満たされ、それだけで満足した気分になっているのかもしれない。今の時代に、江戸の庶民生活を全て真似する必要はないが、ものを大事にしてすぐ捨てない、使えるものは繰り返し使う、リサイクルに協力するなど、1人ひとりがちょっとした心がけさえすれば、環境に好影響を与え、未来の心豊かな生活につながるのではないだろうか。

図らずもSINIC理論(*注)が示す近未来の「自律社会」は“心の豊かさや新しい生き方を求めるといった精神的な価値観が重視される社会”である。これから、どんなに物質的豊かさだけを究めていったとしても、我々の心が豊かにならなくては、その先に真の豊かな生活は訪れないだろう。先人から学ぶべきことは他にもまだあるのかもしれない。
PAGE TOP