COLUMN

2017.01.01澤田 美奈子

なつかしさのミステリー

年末年始に実家の大掃除をしていると、20年ぶりぐらいに見るものが出てきた。今はあまり見かけないサンリオのキャラクター文具や雑貨、当時夢中になって読んだ「りぼん」「なかよし」等の漫画誌の付録や景品など。細々した小物ゆえに、これまで何度か行ってきた断捨離大会の対象からは免れてきた品々と思われる。発見がトリガーとなって“あの頃”の記憶も瞬時にありありと蘇り、ついついウワ~~!と声を上げてしまった。

実用の面では今後特に必要になることもなさそうなもの達である。しかし「ときめかないものは捨てよ」という片付けの達人の教えに従うならば、ひさしぶりの邂逅に心動かされたこれらのものを処分するのは難しい。なつかしいという、このよくわからない感情がある限り、経済価値がモノからコトへシフトしようが、電子化・仮想化が進もうが、人の生活の場には一定数のモノはどうしても残っていくのだろうという気がする。しかもはたから見たら役に立たないガラクタのようなモノ達が、だ。

ところで私の経験からすると「なつかしさ」には2種類ある。
一つは、自分の実際の経験や思い出に由来する「なつかしさ」である。大掃除で発見された自分の昔の宝物たちが思い出させる、当時の友達や学校、出来事などの記憶に対する感情である。

一方、自分の経験や記憶にはつながりを持たない、出所不明の「なつかしさ」も存在する。
たとえば、『三丁目の夕日』や『男はつらいよ』などの昭和中期を描いた映画に出てくる生活文化、風景、家族や人間関係。私の原体験には存在しないものであるにも関わらず、「なつかしい」という言葉以外では形容しがたい感情を湧き上がらせる。
さらに奇妙なことに、アメリカのルート66沿いにある寂れたダイナーやモーテル、香港のかつての九龍城砦の風景なども、写真集や映画でしか目にしたことはないのだが、初めて見たときから私に「なつかしい」という気持ちを呼び起こすのだ。時代も海も超え、一度も訪れたこともないような場所に対して、かつて自分がそこにいたことがあるような、ふとそこに戻りたくなるような、慕情をおぼえるのはなぜなのだろうか。

「なつかしさ」という不可思議な感情の正体を知るためいろいろと読み漁っていた折に見つけたのが、日本心理学会の監修する『なつかしさの心理学』という一冊である。私の思っていた通り、「なつかしさ」にはいくつかの種類があるとここでも説明されていた。専門的な言葉を借りると、ひとつは「自伝的なつかしさ」、もうひとつは「歴史的なつかしさ」である。前者は自分自身の経験に関連した記憶から発生する「なつかしさ」。そして後者が、私が『三丁目の夕日』や寅さん映画に感じる「なつかしさ」であり、これは文化的に共有されている「古き良き風景や事物」の知識に由来するものであると言う。つまり映画やテレビ、教科書、下町風俗資料館の見学などを通じて、「なつかしいものとはこういうものだ」という一般的知識を学習していた結果として生じた「なつかしさ」であったということである。

 以上の解説ではまだわからないのは、50年代のアメリカのマザーロードや九龍のスラム街の風景に対して、東京育ちの日本人である私が、慕情や不思議な馴染み感をいだく理由であるのだが、これはこの本で3つ目の「なつかしさ」として示唆されている類のものかもしれない。説明によると、私的経験でも学習的知識でも説明のつかない「なつかしさ」は、自分の記憶の範囲外にある「無意識レベルの潜在的記憶」に由来するものだと言う。それを経験したり知っているとみずからは認識していないものの、実は以前に目にしたり体験したりして親しみや愛着を持っていた“何か”との類似性を見出し、重ねているらしい。近い現象としては「デジャヴ(既視感)」があると言う。

それにしても、人間にはなぜ「なつかしい」という感情が備わっているのだろう。「なつかしさ」がなければ、断捨離はもっとはかどるし、戻らない過去にとらわれずに前進できるし、デジャヴのような認知の誤作動を起こすこともない。恐れや怒り、喜びや快楽といった感情はヒトの適応戦略上の役割を果たしてきたと考えられるが、「なつかしさ」は何の役に立ってきたのだろう。「なつかしさ」は喜怒哀楽等の基本感情を組み合わせてつくった、ちょっとした応用レシピ、贅沢品に過ぎないのか。あるいは「なつかしさ」という感情自体に、人間にとって重要な何かを知らせるシグナルのような役割があるというのか。これから先の未来に起こる「なつかしい」という感情とその感情をいだく文脈に注目して、引き続きこの謎を追ってみたいと思う。
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