気にし始めると、そこらじゅうにカメラが"> COLUMN:ヒューマンルネッサンス研究所(HRI) 気にし始めると、そこらじゅうにカメラが">

COLUMN

2016.07.01中間 真一

「監視」なのか「見守り」なのか?!

気にし始めると、そこらじゅうにカメラが設置されていることに気づかされます。道路脇の電柱や交差点、自動車、駅のホーム、電車内、エレベーター、商店街やスーパー、コンビニなどなど、私たちの毎日の暮らしは、どこかにあるカメラレンズから、ほとんど見られているようです。
 
調べてみると、監視カメラ設置の勢いが加速されたのは、この15年くらいのことのようです。自治体が公共の場への設置が増え始めたのが2001年あたり。02年に警視庁が新宿の歌舞伎町に50台設置して以来、急激に増加して、現在では国内に300万台以上設置されているのだそうです。もちろん、それらの主な設置目的は「防犯」です。ちなみに、人口当たりのカメラ台数が世界最多の国はイギリスで10人に1台程度。台数ベースでは中国で2000万台以上だそうです。カメラの「監視」は、イギリスでも日本でも、犯罪抑止と発生時の捜索にかなりの効果を挙げており、街の暮らしの安心・安全を確保するために必須の道具となっているのは事実です。
 
一方、超高齢社会と少子社会が現実となった今や、このようなカメラはお年寄り夫婦や一人暮らしのお宅、高齢者や赤ちゃん、子どもたち、患者さんなど、自力での社会生活に不安や心配のある人たちの「見守り」のためにも用途は拡大しつつあります。しかし、この「見守り」用途の商品は、だいぶ前から次々に開発されているようですが、なかなか防犯目的の「監視」カメラほどの急増は見られません。なぜでしょう?
 
私は以前、お年寄りの住まいを調査させてもらった時に驚いたことがありました。息子さんが置いていってくれた見守りカメラが居間を見通せる壁に設置されているのですが、電源が入っていません。「これは、使っていないんですか?」と尋ねると、「息子の気持ちはありがたいんだけど、いつも見張られてるっていうのも何だかちょっとさぁ」と、すまなそうに答えてくださいました。これと同じようなことに、老人ホームでも遭遇しました。
 
使う道具は同じカメラの撮影機能を使っているのですが、撮影される側の気持ちは、「見守られている」とも「監視されている」とも感じ取れてしまいます。そのどちらかで、だいぶ気分が違います。私の印象としては、見守りを英単語にすると"Guard"、やさしく包まれる感じです。一方の監視は"Monitor"とか"Watch"で、常に厳しく視線が差し込まれる感じがあります。同じ機能なのに、「見守り」と「見張り」という感じ方の違いで、そのサービスを受ける人の気持ちはガラリと変わってしまうのです。
 
IoTが騒がれるなど、これからますます世の中にセンサーが埋め込まれて便利で快適な生活がもたらされるはずです。その中では、監視や見守りだけでなく、さらに人の行動情報の収集にも使われ、様々なビジネスにも利用されるようになるでしょう。そうすると、最近のネット上の口コミ情報やリコメンドのように、これまでは人と人の間で直接やりとりされていた情報が、人と機械の間、あるいは機械を介して人と人の間で、というコミュニケーションの新たな姿も生まれてきます。その時、私たちは「人の気持ち」ということ、ロジックや機能的な理屈では納得できない「感情」のことを、機械や技術にどのように組み込めるのか、よくよく考える必要がかなりありそうです。
 
必要な時に必要な情報を誰もがどこでも容易に獲得したり、やりとりしたりできる高度情報社会の豊かさや自由は、逆側から見ると、人々が丸裸にされている完全監視社会でもあります。スマホのアプリで、約束どおりに最適な方法で目的地にたどり着ける便利さやネット上の情報に助けられる安心な社会は、すべての行動や人間関係を誰かに監視されている不信感に満ちた嫌な感じの社会と紙一重の関係なのです。安心や便利さと引き換えに、自由や信頼感を失うことは私たちの描く高度情報社会の未来像ではありません。だからこそ、近未来の豊かな生き方のキーワードは「自律」であり、テクノロジーへのセカンド・ルネッサンスが大切になると確信しています。
 
 
【ちょっと話したい、ついでの話し】
ところで先日、仕事で文章を作成していた時、chounaihuro-raとキー入力して変換したところ、PCは「町内フローラ」と出してくれた。もちろん、その時の私は「腸内フローラ」を求めていた。しかし、私はこの意外な誤った変換結果に、しばし手を止めて考えるチャンスを得ました。自律的に最適な住民構成が生まれる「町内フローラ」という発想です。「これって、いいじゃない!」と思いもよらぬ発想ができたことを楽しめました。こういう経験をしたことのある方は、少なくないのではないでしょうか?
こうして考えると、人と機械が関わり合って「創発」の価値を生むためには、あまり「常識的で正解の知識」を基準に賢い機械とやりとりするよりも、先入観なく、常識とは無関係に機械自ら考えてくれた方が、私たち人間にとって新たな発見ができる、頼もしい相棒になるのかもしれません。人と機械の関係は、「自律」をキーワードに、まだまだこれからがおもしろくなりそうです。
PAGE TOP