COLUMN

2014.11.01内藤 真紀

「腹落ち」「共感」は大切だけれど

預言者モーゼが祈りを捧げながら杖を振り上げると、海水が割れ道が現れた――。前回のコラムにあった「センサーが日常に潜む社会」から連想するのは、こんなシーンだ。センサーネットワークによって、やりたいこと、思いついたことがスムーズに実行できるよう環境が整えられたり、関連情報が紹介されたり、私たちの行動が自然とサポートされる。そうすると、行動の範囲や種類は飛躍的に広がっていくことになるのではないだろうか。
 
このような期待をもったのには、ここ数年とみに「腹落ち」「共感」という言葉に触れる機会がふえてきたからだ。何かを提案する、企画する、といった場面で、腹落ちや共感は必須条件として立ちはだかる。どうしたら納得されるか、共感されるかが、提案のうえでもっとも配慮し注力するポイントになっている。ただ、論理に破綻がなければ腹落ちできるものでもないのがやっかいだ。自分が必要だ、面白い、と感じたことに共感をもらう決定的な方策もいまだ見当たらない。
 
納得や共感なしにはやる気も出ないだろうし、他人にも勧められないだろう。でも、「よくわからないけどやってみよう」という考え方がもっとあっていいのではないか。やりながらわかればいい、という軽さで進んだ先に、何か面白いものが転がっているかもしれない。フットワーク軽く首を突っ込むことで、腹落ちや共感ができる幅がおのずと広がっていく可能性がある。
自分自身、意味が見いだせないことには積極的になれないほうだ。だが、意味を吟味して行動を選択しなければならない、そんな出し惜しみするほどの何かをもっている人間なわけではない。最近は、もっと気楽で適当な心構えでいてもいいかと思うようになってきた。
 
これまで、想定外の楽しみに気づくきっかけをつくってくれたり、いまいち気乗りしない仕事や先のわからない仕事を面白くやっていく支えになってくれたのは、身の回りの人だった。「センサーが日常に潜む社会」が到来した暁には、センサーネットワークもそれに一枚加わってくれると、さらに面白い生活ができるようになるのではないだろうか。予想がつきそうな通り一遍のものだけではなく、こちらを驚かせる、通常の思考回路にはない行動を誘発するようなサポートも、ぜひ組み込んでほしい。
 
 
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