研究員コラム

2014.09.01中間 真一

夏休みの思い出~ニンゲンワザか、カミワザか、はたまた?~

今年は、夏を惜しむ感傷に浸る間もなく、いつもと違う豪雨など自然の様子に驚いているうちに慌ただしく8月を終えてしまった。そんな中、始業式前日に書いていた夏休みの宿題の作文のような気持ちでコラムを書き始めている。さりとて、特別な場を訪ねたわけでもなく、特別に長いバカンスを過ごしたわけでもなく、8月を振り返ってみた。
 
<8月某日 曇り>
 シンギュラリティを題材とした映画『トランセンデンス』が気になっていたので映画館へ。上映時刻ギリギリに駆け込むと、館内は10人いるかどうかのガラガラ状態。「コンピュータが人間を超える」というシンギュラリティへの到達間近の世界で、人間以上の知識と意識を持つ人工知能システムPINNを開発していた科学者が、反テクノロジー武装集団に狙撃される。そこで、彼の死に際に彼の意識をPINNにアップロードした。人工知能として蘇った彼の頭脳は、あらゆる情報を取り込んで、とんでもない進化を遂げ、人間わざを超越した神わざで世界をコントロールしていく。街を買収し、再生医療センターでは次々にコントロール可能な人間を造り出していく。結局、最後は平和な社会を取り戻すのだが、シンギュラリティへの到達と技術が支配する社会の恐怖は、結構リアルな未来へのシナリオのように感じられた。自分の脳情報をアップロードするという発想、ありそうではないか?
 
<8月某日 雨>
 レンタルビデオで、以前に見逃してしまった『素敵な相棒―フランクじいさんとロボットヘルパー―』を観た。トランセンデンスとは違って、のどかなヒューマンタッチと思いきや、かなり深い。認知症のフランクじいさんと息子や娘、そして妻とのやりとりなど、ストーリー展開は身につまされるほどリアルに作り込まれていた。人とロボットのコミュニケーションは、初めはパターン認識による反応であっても、その蓄積の先には感情のコミュニケーションにつながっているかもしれない。そして、自分の真の理解者は、人ではなくロボットかもしれない。ヘルパーロボットはフランクじいさんが認知症ではないことを知っていたのかもしれない。「ロボットにはわからない」という機械の限界もあろうが、一方では「人間同士にはわからない」ことを機械がわかっているという「機械わざ」があるのではないか!
 
<8月某日 小雨>
 中村獅童が龍を演じる歌舞伎『龍虎』を観た。リニューアル後初めての歌舞伎座だが、雰囲気はうまく残されていた。この演目に登場するのは「龍」と「虎」のみだが、この二者の掛け合いは見事なものだ。極めて激しい動きの中で、互いの呼吸を合わせ、寸分狂わぬ型を合わせて舞いきる舞台上の姿を、最初のうちは稽古を重ねてこそ実現される、人間わざとは思えないほどの素晴らしさと感じていたが、しばらくすると、「これって、じつは人間よりもロボットの方が得意な芸ではないか」と思えてきた。そして、時々「あれっ」と感じるズレ、間が見えてきた。これは出来の悪い舞いだったのか?観劇の後、障がい者の若い人たちが働いているカフェによった。コーヒーやケーキを運んできてくれる彼らの言葉は、よくあるチェーン店のカフェの淀みないマニュアル通りのリズムとは違う「間」、「ズレ」があった。けれど、それがホッとさせてくれた。あっ、人間ってそういうことなのかと感じた。
 
 これ以上、ダラダラと夏休みの日記を綴ってもしょうがないので畳んでおこう。マダマダはっきり言えないが、「人間らしさ」が見えかけてきた感じがあった夏休みだった。それに気づけたのも「夏休み」という遊び時間、ズレや間というのも遊びの一つ。人間らしさは、完璧ではないことによる未来への可能性かもしれない。完璧な「型」を破った先にある「遊び」こそ、人間ならではのニンゲンワザじゃないだろうか?「ホモ・ルーデンス」が気になり始めた。
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