COLUMN

2005.01.01中間 真一

「自明」無き時代の生きやすさへ

明けましておめでとうございます
今年も、よろしくお願いいたします

 2005年、それは私たちHRIにとって、一つの節目の年です。なぜなら、HRI創設のテーマである、「最適化社会」の始まりを、オムロン創業者の未来予測理論の中で位置づけられている年だからです。

 その中で、「最適化社会」とは、工業化社会の総仕上げ段階として、物質と精神のバランスのとれた、豊かな社会として位置づけられています。私たちは、この最適化社会を、最適解に到達した社会状態とは、決して考えていません。いろいろな揺らぎが、次々に社会の中に生まれ、よどむことなく流れが生まれて浄化されるような、そんなダイナミックな変化の時代を最適化社会と呼ぼうと考えています。

 確かに今、そこここに、変化が生まれているようです。それらは、残念ながら、望ましい変化だけではありません。生態系の変化、凶悪犯罪の増加、宗教や民族間の対立、貧富の差の拡大など、不安が募る変化の動きも多々あります。

 その中で、私が気にかかっているのは、いま私たちの生きる日本には、「自明」なものが無くなりつつあるのではないかということです。善いことと悪いこと、正と邪、優と劣、こういう価値判断をする上で、自明ということが、身の回りから希薄になりつつあると思うのです。たとえば「働く」、学校を卒業したら働くことも、会社に入ったら定年までそこで働くことも、当たり前ではなくなっています。「学ぶ」、人生の前半に学び終えてしまうわけではありません。多くの社会人が学び始めています。そして「遊ぶ」、気心知れた友達と遊ぶだけでなく、ネットを通じて知らない人と遊ぶことを愉しんでいます。結婚も自明ではなくなってきました。結婚したら子どもを設けようと思うことも自明ではなくなっています。

 じつは、大晦日に私は宮崎駿監督の『ハウルの動く城』を観ました。同僚の感想にも似たような話があったのですが、確かにこの作品は、これまでの『千と千尋の神隠し』までの宮崎アニメと違って、映画を観る上での「敵」と「味方」、「あちらとこちら」という自明の構図がわかりにくく、あいまいにされています。ですから、観る側の居場所も自明ではありません。セリフの中にも、「敵でも味方でも関係ない」という言葉が出てきます。だから、敵と味方のはっきり区別された関係の下で、単純にストーリーに乗っかって、ポップコーンを頬張りながら映画に入り込んでいればいいというのと、少し違う感じだったのです。観ている私自身が、そのシーンから価値を読み取る必要を迫られるような、他人任せではない感じがありました。そんなことを感じながら観ていたのは、私だけでしょうか?

さて、このように、自明なことが無くなっていく傾向は、いいことなのでしょうか?世の中が豊かになった証拠なのでしょうか?

 自明なことがはっきりしていた時、少なくとも私たちは「自明なのかどうか」で迷ったり悩んだりすることはありませんでした。しかし、自明なことがあいまいになってくると、私たちは考えたり、迷ったりした上で、自分で決めなくてはならなくなります。「自分で決める」ということ、このことを「生きやすさ」として選択の自由が広がったととらえるか、一つ一つ自分で考えて決めなくてはならない「生きにくさ」ととらえるか、このあたりが大きな分かれ道になりそうな気がしています。

 フリーターやニートの問題にしても、少子化の問題にしても、これらを問題として責める側の人たちは、「自明」な価値観ありきで論じています。しかし、当事者達にとっては自明ではなく、考えた末の結果という節も見受けられます。

 最適化社会という揺らぎ多き時代の到来は、きっとこんな社会の様子がそこここに見られるようになるのかもしれません。その中から、次なる豊かさへとステップアップするというように。

 『ハウルの動く城』のハッピー・エンドの後、私の中に残っていたことは、自分の外には自明は無い。自分の中で自明をつくるために、価値判断しなくてはならない。だけど、それは決して自分のためだけを考えた価値判断ではない。自分にとって大事な人たちとのつながりの中で生きるということを考えての自己決定であることが大切だ。それができた時に、自由を豊かさとして受けとめられる生き方ができるようになる。そして、自明無き時代を、生きやすい社会としていける方向ではないかということでした。これは、ヒンからもらったメッセージだったような気がしています。
(中間 真一)
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