研究員コラム

2013.07.01中間 真一

「もののあはれ」≒「やばい」?


 先月、サントリー美術館で開かれていた企画展『「もののあはれ」と日本の美』に足を運んだ。『源氏物語』に特段の関心を持っているのでもない私だが、「もののあはれ」というテーマが、どういうわけか気になってしょうがなかったのだ。
 
 みなさんが、「もののあはれ」と聞いて、思い浮かべるシーンはどんなものだろう?
 
 私の場合は、なぜか「秋の月」を真っ先に思い浮かべてしまう。確かに、自然の美しさを表現する言葉である「花鳥風月」にも、「雪月花」にも「月」は登場している。だから私も「月」というわけではないのだが、日本の月には、なにか「もののあはれ」を感じてしまう。
 
 展覧会のパンフレット冒頭には、「「もののあはれ」という言葉は、人生の機微や、四季の自然の移ろいなどに触れた時に感ずる、優美で繊細なしみじみとした情趣を意味します」と、書かれていた。「あはれ」を「哀れ」と漢字で書いた途端、この言葉は物悲しい、儚いイメージを強くする。しかし、本来は違うらしい。賛嘆や愛情を含め、深く心をひかれる感じを意味していたようだ。
 
 なるほど、人の生き方、喜怒哀楽と、自然のうつろいを重ねているわけだ。とすると、自然のうつろいがある場に生きていられるからこそ、私たちの心が共振して、自らの生き方自体に重ねて感じられる「もののあはれ」という美しさなのだろう。そして、その美しさが文化として芸術の中に染み込んでいって日本文化が育まれてきたのではなかろうか。海外でも、月(Luna)は人々の気持ちを揺さぶるものであったようだが、日本のように「あはれ」という美に至ることなく、「狂気」とか「錯乱」の意に向かってしまったのは、やはり自然の中の移ろいの美に差があるのかもしれない。
 
 そうなると、やはり月の満ち欠けは「もののあはれ」が、私たちの心にしみわたる格好のテーマであることもよくわかる。古来日本の美術作品に描かれる月は、「下弦の月」が好んで用いられてきたということだ。夜半に天空に上り、明け方を迎えてから沈んでいく、大人の夜の景色の中にある月なのだそうだ。月明かりこそが夜の光であった時代、人々は月を眺めている時間が私たちよりもはるかに長かったのだろう。
 
 だからこそ、その形の微細な変化にも心をシンクロさせ、「十六夜(いざよい)」、「立待月(たちまちづき)」、「居待月(いまちづき)」、「臥待月(ふしまちづき)」など、微妙な形の変化に応じて言葉が生まれているのだろう。このように日本語における月の呼び名や色彩の呼び名は、海外と比較すると圧倒的に多様性に富んでいる。日本人の感性は、やはり四季のうつろいによって育まれてきたということがわかる。ちなみに、私が会場ではっとさせられたのは「十三夜月」の美しさを感じた時だった。これが「もののあはれ」かもしれないと感じた瞬間だった。
 
 この「あっ」という気持ち、これが「もののあはれ」なのだとしたら、今の言葉に置き換えるとどんな言葉になるのだろう?そんなことを話していたら、友人は、「今、若い人たちが使っている「やばい!」が、それじゃないか」と言った。なるほど!そう言われると、わけのわからなかった電車内の若者同士の会話に出てくる「やばくない?」「あれ、やばっ!」のやりとりが、少しだけ理解できてくる。そうか、イマドキの若者たちも、じつは「もののあはれ」の感性があったのか!だとすると、もののあはれこそ、クールジャパンそのものではなかろうか。
 
 今、社会の中で価値のモノサシが、なんでもかんでも「経済性」を使うようになってきて、日本文化も、海外でお金になるアニメに集中し、クールジャパンなどという国家戦略として打ち出され始めている。確かに、それもいいだろう。しかし、日本文化の価値のモノサシとして、自然の中にある生活文化としての「もののあはれ」を見直したいものだ。生活文化と未来を考えるHRIにいる私としては、「もったいない(MOTTAINAI)」に続く、日本発の世界的未来キーワードとして「あはれ(AWARE:英語でも「気づき」だ)」が登場する日は遠くないような気がする。いやあ、本当に素晴らしい展覧会だった。古語辞典や国語辞典で「あはれ(あわれ)」をひくと、「特に日本人の美意識を揺さぶるやばい感じ」と出てくる日は近いかもしれない。
ページTOP