COLUMN

2012.10.15澤田 美奈子

一人称で見つめる<特異点>

 The Singularity is Nearというタイトルの著作で、人間の能力が根底から覆り変容する=<シンギュラリティ(特異点)>の到来を予言するのは、レイ・カーツワイル氏である。「20世紀のエジソン」とも呼ばれるカーツワイル氏の主張の根幹には、人間が直面するどのような問題でもそれを解決するアイデアは必ず存在する、という信念がある。
                          
機械の知能が人間のそれを超える、そして人間が人間の能力を超える、<特異点>の到来。例えばカーツワイル氏は、「赤血球より小さいナノロボットが血管内に送り込まれて、病巣を探し出し、血液の中に薬を放出するように設計され、人間はより長寿になる」という未来像を描く。こういった技術推進派に対し、「その技術の安全性は、副作用は」という懐疑派からの声や、「むやみやたらな生命や身体の拡張は人間が人間であることをゆがめるのではないか」といった倫理サイドからの反発が起こっているのも確かである。それらの声に対しては、「それは技術ではなく利用する人間や社会の問題だ」とか「それを言ったら人工心臓は、メガネは、拡張ではないのか」というような意見が出てきて、「そもそも補完と拡張の境界はどこなのだ」といった抽象的な議論へ発展し、万人が納得できる結論は誰も見出せていないというのが、科学技術社会論の現状でもある。
 
人間と機械の関係性については、頭や机上で議論していても結論は出ない。かといって技術が出回るようになってからでは遅いからやはり先回りして考えておくべき問題ではあるが...と悩ましいイシューでもある。そんな中、こうした問題についてひとつの重要な視座を与えてくれるように思うのが、『サイボーグとして生きる』というノンフィクションの著作である。
 
主人公のマイケル・コロスト氏は、聴覚障害のため頭に人工内耳を埋め込むことになる。人工内耳とはコンピューター制御の耳で、高度感音難聴の先天性、後天性患者に聞こえを獲得させる技術だ。何が聞こえるかはソフトウエアが決める。したがって本来の人間を超えるような聴覚を持つようにもできる。手術の話を受けたとき、主人公の心に最初に到来したのは<おそれ>であった。自分の内部に機械が侵入し、感覚や意識の領域が部分的であれ機械に支配されることへの抵抗感。だが手術の日を迎え、無事聴覚を得た彼は<喜び>を感じた。単に聞こえるようになったからではない。聴覚を得ることは、世界の一員であるという帰属意識を彼にもたらしたからである。ただ、人工内耳に慣れるにしたがって再び彼を失望させたのは、技術の不完全性であった。機械のシステム上、そして人間の聴覚の仕組みがまだ科学的に解明されつくしてないがゆえに、どうしてももって生まれた"耳"の代わりには100%なれないのである。期待が大きかった分、落ち込みも大きい。しかしやがて彼は、機械の不完全さを徐々に認めながらも、機械がもたらしてくれたチャンスを最大化し、何者でもない自分というアイデンティティをRebuild する―といった話である。
 
この赤裸々なノンフィクションが教えてくれるのは、機械への<喜び>も<おそれ>も、どちらも一個人の中に存在する感情であるということである。技術の力でどれだけすばらしく変われるのだろう、というのは人間の純粋な探究心だ。人間らしくありたい、人間の領域を機械に奪われてたまるか、という思いもまた、ヒューマニズムそのものである。両者ともに人間のまっとうな心の動きであり、どちらか選べ、と言われても無理な話だし、現実的な問いかけでもない。だからこそ、どちらを取るかではなく、どういう関係性を構築していきたいかを考えるべきなのだろう。
 
人間・機械の関係性を考察する上でひとつ重要な視点は、このノンフィクションのように、【一人称】で問うてみることではないかと思う。わたしの日々の生活の喜びはどこにあるか。悲しみは何によってもたらされるのか。人生の目的は何なのだろう。そんな問いかけの中から、機械のはたらきどころを見出すことではないか。
 
ちなみに冒頭のカーツワイル氏の、シンセサイザーやハンディ・スキャナーの開発経緯には、スティービー・ワンダー氏からの直接の依頼や、盲学校の生徒の授業に役立つようにといった思いがあったと言う。顔の見える具体的な人間と彼らの住むコンテキストへの共感と洞察は、発明の原点でもある。
 
 
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