研究員コラム

2012.06.01鷲尾 梓

身をもって「示す」

 自らを「見せる」ことが、他者にも、自らにもポジティブな変化をもたらす―内藤さんの主張にはっとさせられた。ちょうど、人から「みられる」のではなく意識して「みせる」ということについて考えていたところだったのだ。
 
 一歳半を過ぎた息子は世に言う「イヤイヤ期」にさしかかってきた様子。ついこの間まで素直だったのに、何をするにもいやだいやだという。戸惑いつつ、どうすればスムーズに行くか?と頭を悩ませて行き着いたのが、「みせる」、あるいは「示す」という作戦だ。
 
作戦1:してみせる
 食事や着替え、掃除・・・生活の中でなんでも大人の真似をしたい時期。時間はかかるが、ゆっくりやって見せて、ひとつひとつ自分でできるようにサポートする以外にない。そうすると、もっといいやり方はないものかと考えたり、今まで気づかなかった自分のくせに気づいたりする。学びを自分のものにするには人に教えるのが一番だ、とはよく言うが、ほんとうにそうだと思う。
 人に対する接しかたについてもそうだ。「おはよう」「こんにちは」「おやすみなさい」「いただきます」「ごちそうさま」「いってらっしゃい」「おかえりなさい」「ありがとう」「ごめんなさい」。家の中でも外でも、きちんと相手の目を見てあいさつすることを意識すると、ずいぶんいい加減になっていたことに気づく。
 急に子どもの躾を、などと思ってもうまくいかない。躾はその文字の通り、自分自身の「身」を「美」しくして、それをみせることなのだと学んでいる。
 
作戦2:見通しを示す
 料理をしていると、「だっこだっこ」とぐずり出す。こういうときに、ただ「もう少しだから待ってね」と言ってもうまくいかない。そうかといって、一緒に遊んでいるわけにもいかない。どうしたものか、、、と考えあぐねていたある日、抱き上げてキッチンカウンターの上を見せた。ほら、今このにんじんを切ったところ。ここのお野菜をお鍋に入れたら一緒に遊ぼうね。すると、子どもは「うん」と頷いて、落ち着いた様子でひとりで遊び出した。
 子どもも、見通しがあることで気持ちが落ち着いて、待ったり、自ら考えて行動することができるのだ。考えてみれば極めて当たり前のことだが、意識して見通しを示す、ということの大切さを改めて学んだ。ただし、そのためには、当然のことながら自分自身がぼーっとして見通しなく過ごしているわけにはいかないし、一度口にしたことは守らなければいけない。見通しを「示す側」もなかなか鍛えられる。
 
作戦3:気持ちを示す
 子どもが歩けるようになって、抱いている時間が格段に減った。これから成長していくにつれて、ますます減るのだろう。意識してぎゅっと抱きしめたり、「大好きなんだよ」と伝えることが大切に思えてくる。そうして少しの時間を過ごすと、不思議と子どもも落ち着いていて、自分自身も穏やかな気持ちになれる。最近は子どもも真似をして、お気に入りの人形やおもちゃを抱いては「だいじだいじ」と言っている。
 中野さんのコラムにあった「ラブという態度」という言葉が印象に残っている。「ラブ」にははたしかに、時に「感情」より、「態度」という表現がしっくりくるような気がする。日本語でちょうどおきかえられる言葉がみつからずに「だいじだいじ」と言っているが、言葉自体は何でも良いのだと思う。「あなたのことを大切に思う」「私にとってこれが大切だ」ということを、意識して伝える、ということに意味があるように思う。
 
 「持つことは、何かつかえば減るものに基づいているが、あることは実践によって成長する」--前回の私のコラム「『有限』を思う」を受けて、中間さんが引用したエイリッヒ・フロムの言葉の意味を日々考えている。親が子どもにできること、現世代が、次世代にできることはなんだろう。釣った魚を与えて養うことはもちろん大切だが、魚の獲り方をみせ、それが叶う環境を残し伝えていくことはもっと重要だろう。自ら実践し、生み出して行く力を持った人を育てる為には、そして、自分自身が「生み出して行く」姿を示していかなければならないのだと思う。
 
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