研究員コラム

2012.04.15澤田 美奈子

「ない」からこそ「持てる」こと

 今年度からのコラムは連歌風に、という提案がありましたので、前回の中間さんのコラムの、「持つこと(to have)」からあること(to be)へ」、「持たない、失ったことから生まれる何か」といったメッセージから連想したことを書いてみます。
 
 何かを失うことが発達の契機となる、というのは生物学や動物行動学、考古学、脳科学といった分野でも言われていることです。京都大学の霊長類研究所の報告によれば、ヒトはチンパンジーの記憶能力に圧倒的に劣るといいます。たとえばチンパンジーはパソコン画面上に提示されたランダムな数字の配置を一瞬で覚えるそうですが、0.6秒提示された画像を記憶できる人間は数千人に一人、つまりほとんどの人間にできることではありません。一方ヒトは瞬間的に画像を記憶する能力がない代わりに、意味や全体の構造といった抽象的な思考様式を持つようになりました。そして記憶力を補うための、言語や文字、記録媒体の技術も生み出し、ヒト固有の賢さや文化ができてきたと言われています。
 
 ないからこそ獲得する、ということについて改めて考えたのは、ある研究会の仕事で、義肢装具の制作・調整から装着者のリハビリ訓練までを一貫して提供している施設を見学させていただいたときのことです。病気や事故で足や腕を切断することを余儀なくされるというのは、想像もためらわれるほど、ショックで壮絶な経験だったはずです。しかしリハビリに取り組んでいた方々の表情がいたって明るいものだったのが、ひどく印象的でした。理学療法士のスタッフの励ましの中、義足を装着して一歩一歩あるく姿、その足取り、顔つきからは、歩くんだ、生きてやるんだ、という強い意志が伝わってくるように感じられました。
 
 何かを失って、埋め合わせる。このプロセスの中で、欠落に対する"補完"以上の何かが生まれてくるのが非常に興味深いことです。どうしてこういったことが起こるのか。人間が抽象能力を獲得するに至った過程についてはまだ詳しくわかっていないようですが、少なくとも義足の方々のリハビリ風景から感じたのは、持っていない、失ってしまったという目の前の現実と、それでも「こうありたい」という願いとをどうにかして折り合いをつけようと、努力したりもがいたりといった"動き"の中で、人はよりよい生き方へと導かれるのではなかろうかということです。前回の中間さん、もとい、エーリッヒ・フロムの言葉を借りれば、これこそが「to be」という在り方だと言うこともできるかもしれません。
 
 いま、南アフリカ共和国の陸上選手、オスカー・ピストリウス氏の義足が、補完をこえた推進力として働いているのではないかということでオリンピック出場の是非が議論になっています。確かに短距離を走ることに特化し改良を重ねられた義足ではあります。しかし、良い義足を使えば誰でもすばらしい走りができるようになるわけではありません。限られた練習時間で厳しいトレーニングにはげむ姿を見てきた仲間からは、彼の出場を認めるべきだという声が上がっていると聞きます。
 
 そういえばピストリウス選手のモットーは、
"You're not disabled by the disabilities you have, you are able by the abilities you have."
だそうです。これを見て私は、アレ?と感じました。彼の見事な走りは、「to be(成ること、行動すること)」の賜物だと思っていたところに、haveという言葉が出てきたからです。しかし考えてみますと、ピストリウス選手と同じ状況になったとき、同じだけの努力をして結果を出せる人間が果たしてどれだけいるでしょうか。そう思ってみると、確かにここはhaveという表現にふさわしく、困難にめげず克服しようとするabilityを持つ人とそうでない人の差があらわれてくる部分でもあるように思います。これから私たちが「to have」を目指したいのは、「to be」=「行動する」「ありたい自分になる」のためのabilityかもしれません。
 
◆参照サイト『The Telegraph』によるオスカー・ピストリウス選手インタビュー
http://www.telegraph.co.uk/sport/mysport/2312850/My-Sport-Oscar-Pistorius.html
 
 ※記事は執筆者の個人的見解であり、HRIの公式見解を示すものではありません。 
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