COLUMN

2011.11.15澤田 美奈子

シリーズ「ポスト3.11のあたりまえ」#4無関心の知、新しい好奇心のありかた

 人は空気・水・食糧のみで生きるものではなく、前回の内藤さんの「日常の楽しみ」といったものにも生きがいを見出している。人間らしく生きる上で必要なことは何か、という同視点で、今回は「情報」と人間の関係性、というところについて考えてみたいと思う。

 今回の震災時役に立ったメディアとして、テレビやラジオ等のマスメディアより、Google、twitter、Facebook、mixi などを挙げる人は多い。情報の即時性・網羅性・地域性・個別性が求められる非常時においては、こうした新メディアがいかに力を持つか。それを証明したのが3.11であったとも言えよう。
 だが情報技術の進展に比例して、私たちも賢くなっているだろうか?そう聞かれて、よどみなく肯定できる人はどれだけいるだろう。3.11を経て、私の実感は逆だ。これまで自分がいかにさまざまなことに無知・無関心だったのか。それが改めてハイライトされたのが、3.11以前と以降の変化である。

 無知・無関心、と並列して書いたが、問題なのは無知よりも無関心、「知らなかった」ということより「知ろうともしなかった」ことだ。最たるものはやはり電力関連のことである。電気依存の生活の快適さと裏腹のリスク、私たちの贅沢で気まぐれな電力消費を可能にしてきた偉大なシステム、そのシステムを実現している技術や意思決定の背景について等々。
 こうしたエネルギーなどの問題は、本来なら自分の生存にとって重要な情報だが、インフラが整備され分業化が進んだ社会では、自分の知らないところで誰かがうまくやってくれているので取り立てて知らなくても良い情報である。心理学者のフィスクは「認知的倹約家」という理論で指摘しているが、人の頭脳の情報処理能力には限界があり、自分で考えずに済む問題はあえて考えようとしない性向がある。したがって、多くの人は自分の仕事や家庭、生活に近いところでの情報量は増やす一方、関心が及ばない範囲への情報のアンテナは鈍くなる、というギャップが生まれる。

 何かの情報を得たい、知りたい、というのは人間の業のようなものだが、3.11以降の問題は、この「知りたい」をどこに向けるかということだ。
 兆しとして私が信じたいのは、内閣府の毎年の調査に現れるように「社会貢献したいと思っている人が増えてきている」こと、そして今回の震災後の積極的なボランティア活動、こうした動きの背景にあるであろう、何かしら現状を変えなければならないという人々の思いである。社会をよくしたい。ではいま何が問題なのか。その問題解決のための手段にはどんなものがあるのだろう。それについてどんな人がどんな考えかたをしているのだろう。幸福なことに、新しいITツールは、どんな種類の情報も考え方も公平に入手することを可能にしている。そして誰でも、賛成派でも反対派でもない主張を持たない人だって、議論に触れることはできる。そこがまず第一歩だ。こうした社会的な関心の広げ方、意識的な情報へとの付き合い方こそが、3.11以降の知的好奇心のあるべき姿ではないかと思う。
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