MONOLOGUE

2020.02.11

たくさんの皆さんから、「所長の独白は一回限りなのか?!」とお叱りをいただいていました。ようやく、いつでも「独白」できるようなシステムにしてもらったので、これからは、ツイッター以上、note以下くらいの独白を気軽に吐かせていただきます。

出かけた方も多いと思いますが、先日、森美術館で開催中の「未来と芸術展」に出かけました。この企画展、事前の周囲の評判では賛否拮抗、理由も様々でしたので、なんとしても自ら確かめたかったわけです。入口すぐには、例の大晦日の紅白で話題というか、論争の契機となった、AI美空ひばりさんが唄う特設ステージ。椅子に座ってじっくり二度ほど新曲「あれから」を聴いたが、確かに上手い。周囲でも、「すごいな!」「気持ち悪い!」と声が聞こえる。

この件、批判側は「勝手に故人を蘇らせる権利は無い」というのが主な主張、賞賛側は「3Dホログラムの像の振りや唄いまわしが上手い」というのが基本構図だ。しかし、ものまね芸ではなく、AI芸となると、なぜこんな論争になるのだろうか?

リアルとバーチャルの境界が見分けられなくなることへの恐怖?
ホモ・サピエンスとしての防衛機制かもしれない。

同様の試みは、既に夏目漱石、桂米朝でも行われてきたが、そこまでのリアル感ではなかった。人間の進歩志向意欲によって開発されるテクノロジーの蓄積は、バイオテクノロジ-、人工知能と歩みを進めてきて、人間の感知力を超えようとしているのだろか?これは、まさにオムロンの未来羅針盤であるSINIC理論にも通じるところがある。電子制御技術、生体制御技術、そして今、精神生体技術という新たな技術領域が次の自律社会を革新させるエンジンとなる展開と、まさに重なる展開だ。SINIC理論について語ったオムロン創業者の立石一真は、「自律社会への進化には、人間の真の変容が必要となる」と言った。これまでは、なんのことを言っているのかわかりにくいことだったが、ここに来て、かなり現実感、臨場感をもってわかるようになってきた。

森美術館の南條史生館長の感知と思考と表現は、常々ほんとうにスゴイと感じているのだが、この「未来と芸術展」開催に寄せた文章でもスゴいことを記している。その一つのテーマは「ネオ・メタボリズム」であり、半世紀以上前のメタボリズムは今、情報技術を獲得して自律性や持続可能性を獲得できるようになったという主張だと私は感じ取った。二つ目のテーマは「ポストヒューマン」。私たちは、ポストヒューマンをスーパーヒューマンとみるべきか、怪物とみるべきか、それが大きな問題だ。

さまざまな展示の最後のセクションには、手塚治虫さんの「火の鳥」と、諸星大二郎さんの「夢みる機械」が展示されていたのが象徴的だった。ここまで見てきた鑑賞者にとって、最後に鳴らしたのは「人間中心主義への警鐘」なのだろう。

個々の展示で、多くを感じることができた本展覧会は、私にとって「研究テーマの宝庫」だった。きっと、評価の低かった人たちは「自分の生きる未来」として見たからかもしれない。今回の独白では、とても記しきれない刺激の素だらけだった。

「人間はこれからどうなるのか」この哲学的な問いかけは、美学の時代の到来を告げるものであると言う。今の混沌、パラダイム・シフトから抜け出すためには、これまで「余暇」や「遊び」としてあったアートの力を必要としているのだろう。あの偉大な経済学者のケインズは、イギリスのアーツカウンシル初代理事長で、生きる目的が経済的満足から文化的豊かさに向かうことを明言していたのだから。
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